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zoom RSS ―棄(す)てられしものたちの残像―

<<   作成日時 : 2017/03/28 12:05   >>

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『世紀末の風景 ―棄(す)てられしものたちの残像―』は、今からほぼ20年前の1998年にETV特集の連作の一つとして放映されたドキュメント番組です。98年という時点は、阪神淡路大震災、オウム真理教事件から3年経ち、これを境に自殺者が3万人台を突破した時期でもあります。翌年には周辺事態法が成立しました。連作の一つには、自殺に特化した「心の内戦―自死を巡って―」という一本もあります。

「棄てられしものたちの残像」は、廃棄・遺棄されるもの、具体的には、ガラス瓶、粗大ごみ、廃棄食品、古タイヤの現場を辺見庸がかれの足で踏み、また、今では「動物(愛護)指導センター」という痛い包装が施されたペット処理場の焼き場の釜の中を正視します。続く土葬風習のある地域の取材は、生活圏の中で弔われる遺体に焦点が移ります。

作品は映像、音声、構成、いずれの面でも高度で丁寧な作りであり、朗読箇所を主に文字化したいと思いました。


足元をきらきらとよく光るものが流れて行く。ちゃりちゃり、さらさらと、涼しげな音を立てて。エメラルドの山とも、ダイヤモンドの山とも見紛う燦爛たる光の中を私は歩く。

踏みつけるには、いささか危ういもの、もったいないものを足の裏に感じつつ、怪しく乱反射する光の尾根を、よろよろと伝って行く。

ああ、ひどく眩(まばゆ)くて、夢の中にいるようだ。何だか、天上の風景を彷徨っているみたいだ。

陽光が陰れば、宝石の山と見えたものは、何のことはない。大小、色とりどりのガラス瓶の墓場であると知れる。天上ではなくて、黄泉なのかも知れない、ここは。

微かにボルドーの匂いがする、ブルゴーニュの香りも漂う。焼酎、スコッチ、ポン酢、栄養ドリンクの残り香も。いやはや、飲みも飲んだり、捨ても捨てたり、だ。

(清涼飲料の茶色の小瓶を取り上げる)

「ウエっ、スゲー、いや、完全にあれだ ... 残っている、ほら」

(臭いを嗅ぐ)
「出してみる」
「ションベンみてーだ」

瓶の一本、一本、破砕されたガラスの一つ一つが、とりとめのない人の思い出を貼付けている。欲望の名残、見果てぬ夢の欠片(かけら)、虚栄の残滓、仮初めの恋の記憶 … が、まだ揮発し切らずにゆらゆらと宙を漂っている。

偉大な神話を捨てた20世紀は、夥しい生産と消費の神話のみを育てた。

戦争がその最たるものだったけれども、平時において尚、戦争規模の消費と廃棄を繰り広げて止まないこの世紀末とは、一体どのような時なのだろう。

人とものの関係が今、明らかな変調を来している。人はものを愛し、執着し、ものに取り憑かれながら、日々ものを棄て、ものに脅かされている。

その無惨、その悲しみ、その滑稽を、しかし、私たちは、何故だか、正視しようとしない。

棄てられしものたちの風景は、いつも隠されている。

今世紀、国家は、国民により多くを生産することを求めた。今、国家は、より多く消費せよという。

その結果としての目も眩むような光景がここにある。

【江東区中央防波堤外処分場】
テロップ:毎日5000トンを越えるゴミや消却灰が埋め立てられている

(ゴミの中から、パーティーなどで使うビニールのすっぽり被る人面(男性白人?)を軍手の手で取り上げ、広げ、)

「どうだ、怖いダロ」

このゴミの海原の凄まじさは、単にその量が然らしめているだけではない。映像では捉えきれない、複雑にしてモーレツな臭いもまた、メトロポリスの病理の深さを表している。

鼻も曲がるほどのこの臭いは、ゴミとして投棄されたものたちの異議申し立てであり、自己主張である。

「あー、ゴミって温かいよね。うー、うーん、うーん、普通の路面にいるよっかさー、なんか、ゴミ同士で反応し合ってさー、温かくなっちゃてんだょ」

ゴミの海原には巨大怪獣の体温のような不気味な温もりがある。酵母類、細菌類などの微生物が必死になって有機化合物を分解し、熱を発している。

耳をそばだてるとゴミの吐息、ゴミの鼓動が聴こえてくる。低く、重く、うねるような音も。ああ、ゴミが大合唱をしている。

「うーん」
「この辺かな?」(ジーという機械音)
「ほー」「ほー、こいつ」
「ビーっていう▽※○、あれじゃないか」
「この辺」
「それですかね」
「羽(ん)虫のね、音みたいな。これですね、この辺から」
「なんだろう」
「聞こえる、音が?」
「ビーっていう … 」

「なんか、なんかガスが発生して」
「発生してくる信号だと... 思うんですけどね〜」
「結構、ゴミん中って温かいですね」
「ナナ … ものすごく、熱いんですねー だからそのあたりでしょうねー」
「温かいですね」
「だた、そのあたりでしょうね〜 70度っていうのは結構な熱さですから」
「発酵し合って」
「ええ、そうなんですねー」
「分かった、ほら」
「バッテリーか?」

(電動ひげ剃り器であることが分かる)
「おもしれー」
「おもしれー、えっ、こんなことあるの? あれ、ひげ剃りじゃん、これ」
「いや、はっはっ、ひどい」
「ひげ剃りがあった」
「今頃になってさ、ニッカド、ニッカド電池ねー、あれだよ、動いているんだよ」
「いやー、おっどろいたねー」
「でも、こんななってもねー ものはちゃんと機能してるんだよ」
「びっくりしちゃったよー」
「これ、どこにスイッチがあるんだろう?」
「上にある」
「おむ」
「止まんない」
「もう、止まんなくなっちゃっている。捨てられたから怒こっちゃって」
「泣いてんだよ、これ」

(粗大ごみ破砕処理施設内)
「こりゃもー、スゴいなー、なぁ」
「いやー、こりゃスゴいね。テレビもあるし」
「いや、これはすごいねー」
「さっきゃ、ものすごい立派なソファーがあったよ」
「布団、椅子、自転車。何でもありだよ」
「あれ、クーラーか?あれ」

「これがゴミなものか」と私は思う。「これらのものたちのどこがゴミなのか」と。

以前、ベトナムのハノイで暮らしていた頃のことを思い出した。ある日、日本語を勉強している学生に聞かれた。

「粗大ゴミ、とはどういう意味ですか?」

私は日本の感覚で粗大ごみの定義を語った。学生はどうしても納得しない。

「それならゴミではないはずです。ゴミではないものを何故、ゴミというのですか?」と私に問うのであった。

ハノイでは、当時、腐ったバナナの皮などの、まったく形をなさないもの、いかなる使用にも耐えないもの、のみを、ゴミと呼んでいたから。

(ガラス片がさらさらと流れる涼しげな音)
【夢の島熱帯植物館】
テロップ:ゴミの焼却熱を利用して館内の暖房が行われている

「人はもの自体を消費することはない。」

ジャン・ボードリヤールは、そう言った。つまり、人は一般にものの使用価値そのものを消費し尽くすことはないということだ。

自由に好きな物を好きなだけ消費しているという主観は、大いなる幻想である、とんでもない楽観である。日本では特にそうなのだ、と私は思う。まだまだ、使用価値も、交換価値もあるものたちを、「ゴミ」、として無感動に遺棄する、驚くべき習慣がいつのころからか、この国にも生まれてしまった。しかし、遺棄や投棄は必ずしも消費を意味しない。

ならば、私たちは一体、何を消費しているのだろうか。

ものではなく、実のところ、私たちは、私たち自身を消費させられている、だけなのではないか。とりわけ、精神を、こころを。でも、それは正しくは「消費」とは言うまい。浪費である。

こころの浪費である。

日本のゴミとは、単に持ち主が棄てたものを指すらしい。この概念に厳密には、利用価値も交換価値も関係しない。相当に暴力的な分類なのである。

【東京渋谷 午前零時】
(半透明のゴミ袋の中のチラシ)

「舐め放題、触り放題」
「8千円」
「ドリル・アナル攻めってのはww、スゴいな」
「ドリルっww、ドリル・アナル攻めだってよ」

(半開きのゴミ袋をまさぐる)
「髪の毛だよ、髪の毛。怖ぇ―よ」
「髪の毛か」
「髪の毛だよ」
「美容院、美容院だょ」
「茶髪」
「温かい?」
「温かい」

(数人の男性がゴミ袋を暗がりに集める)
「残飯さがしてんだろ」

売れ残ったハンバーガーをゴミとして捨てる店があれば、それを漁っている男たちもいる。自分の空腹を満たしたり、時には他人に売ったりもする。

このゴミ漁りは、「これらはゴミなのだ」という一方の建前上の分類を、もう一方が、「いやいや、違いますよ」と無視し、食い物として分類し直す行為なのである。

ゴミ漁りは、朝になるとカラスとの競争になる。夜の内に済ましておかなくてはならない。に、してもゴミ袋の中からハンバーガーやフレンチフライを選り分ける男たちの背中が切なく、そして、心なしか、禍事(まがごと)らしく見えてくるのは何故だろう。

この消費資本主義では、膝を屈してものを拾うよりも、景気よくものを捨てる方を正常とする、思えば、不思議な錯覚があるからだろう。

確かに、捨てる行為よりも、拾う行為の方をいかがわしいと見なす癖がわれわれにはあるかも知れない。

(路上のトランプ芸のニーさん)
「カード変えちゃうよ。行くよ。カード変えちゃうよ。ありますね、こちらに。ダイヤのキング(ダイヤのテン)」

【午前三時】
(雑居ビルの階上から、ゴミ袋が二つ落とされる)

今日日は、メトロポリスのどこに行ったって、ゴミの中身に往事の元気がない。夜にも一昔前の元気がない。どこか陰に籠っている。

きっと、消費資本主義の欲望がここに来て暗く内向し始め、排泄がうまく行っていないのだろう。

消費疲れし、胃袋にも潰瘍か何かができているのかもしれない。

【午前六時】
店、店の客、残飯、残飯漁りの男たち、カラス、ネズミ。これらには目には見えない深い縁(えにし)がある。食い物が関係を媒介している。輪廻にも似た、ものの不可視の循環がここにある。ただ、この循環構造の中で元気なのは、人間ではない、カラスであり、ネズミである。奴ら、この世紀末に来て、増々、元気になっている。

【みぞれ降る古タイヤ置き場】
テロップ:今年一月 栃木県の山林に20万本野積みされた古タイヤが燃えた
業者は古タイヤを輸出用の商品と主張 県は廃棄物の疑いが強いと見ている
土砂で炎を覆い5日後に一応消火された。
火災から2ヶ月後の現場

車両がこの国を拓き、建設して来た。溝の消えかかった古タイヤは、言わば、功労の証と言っていいはずだ。が、多くの場合、やっかいもの扱いされる。はなはだしきは、敵視さえされる。有価物がある日を境に廃棄物とされ、さらには、毒物とまで見なされることも、ある。ものの有為転変(ういてんぺん)は、思えば、人間の有為無情(ういむじょう)に似て物悲しい。

テロップ:土中でまだタイヤはくすぶりつづけていた

「この下がそうなんすか」
「全体的ですね」
「あー、そうなんですか」
「今ー、これ熱測ってるんですけれど。温度」
「ええ」
「今、200度くらいですか」
「それ200度あるんですか」
「まだ入れたばっかりですけど」
「うわーすごいな」
「本当は全体がタイヤなんですね」

【みぞれは細雪となる】
古タイヤに火が着く。なかなか消えてくれない。土をかけても、なお土中でしつこく、くすぶっているのだそうだ。土の下でぶすぶすと文句を言っている。処遇が不満なのだ。さんざ働いたのに放擲され、野晒しにされたことを恨むかのように、ぶつぶつ、ぐすぐす、くすぶり続ける。

私たちはたぶん、ゴミを支配出来ない。思い通りに操作することもできない。服従させることもできない。ゴミは繊細で、かつ、アナーキーである。

放縦極まりない私たちの内面とゴミは案外に似ている。そうそう、記憶にも、似ている。

【チンパンジーの檻】
「はい」
「やってみようか。はい。ポンと行きます。上手に受けろよ。はい」
「よーっし」
「はい、パン、はい」
「なんだよそりゃー」
「はい」

【象に餌やり】
「はい」
「どんどんいくよ」
「はい」
「あっ、痛て」
「はい」

【水槽容器に入れられたヤマアラシ】
「んー、かわいいねー、これ」
「手で持ってみることができるんですよ」
「痛くないですか」
「腹の下は … 」

テロップ:飼い主がペットを動物園に置き去りにしたり、持ち込むケースが後を絶たない
「固まっちゃうんだね」
「これ、なーんで飼えなくなちゃんだろう、これ」
「臭い?」
「臭いもありますし、あんまり他の動物と違って、こー、触ったり、できないんで、面白くないっていうのもあるんじゃないかと」
「飽きちゃうのかな? う?」「そーですね」
「はい … 」
「うーん、これはかわいい」
「温かい。かわいいじゃん。温かいよ」

高度資本主義社会における消費の幅の広さ、選択肢の多さが一時(いっとき)、大いに喧伝されたことがある。清涼飲料水の数々からペットの色々まで、好きな物を好きなだけ、好きな時に買える、自由で楽しい個性尊重の社会なのだ、と。だが、個人に開かれた選択的消費の幅が、そのまま社会の豊かさ、人間の自由の度合いまで証明するものであろうか。

まぁことにもって疑わしい。

好きな物を好きな時に買って、そして、飽きが来たら、あっさり打ち捨ててしまう、それが、人としての豊かさであり、自由の証であり得るワケがない。例えば、犬を見てみよう、猫を見てみよう、かれらの行く末を見てみよう。

【入口で衛生白長靴に履き替え、ペット処理場の檻に近づく。始終、犬たちの金切り声がしている】

「こいつら、分かっているんですよ、ね」
「奥に一匹いるちっちゃいの」

空前の規模のペット関連市場を持つに至った日本では、一方で、公的機関が毎年数十万匹の犬と猫をガス室で殺し、焼却処分している。捕獲された捨て犬たちがほとんどだが、少なからぬ飼い主がペットに飽きてしまうか、飼育の手間を厭うようになるかして、自ら、処理を依頼して来るのだと言う。

たくさんの犬と猫が毎日、毎日、全国各地で焼かれている。気まぐれな選択的消費の果ての戦慄すべき殺戮である。

この施設の800度から900度の高熱炉により日々処理されている犬たちは、敢えて乾いた理屈で言うならば、市場原理に合わなくなり、有価物とは見なされなくなったものたち、すなわち、

廃棄物と同等の存在なのかも、しれない。

だが、そのように乾いた理屈は、処理の工程を一目見るなり、二度とは、口にできなくなるであろう。

数分後にガスで殺されることになる犬たちの眼の色の深さは、

いかなる理論をも無効にしてしまう。

そして、日々の業務として犬を焼かなくてはならない、年老いた職員の

眉間の皺の深さはどうだ。

無論、罪は断じて彼にあるのではない。もしも、この仕事を残虐非道などと誹(そし)るのであれば、残虐の真の根っこは、消費社会の全域を這い巡っているのであり、残虐の芽は、人間の気ままな愛と欲にこそ兆(きざ)していると、言わざるを得ない。

「どいつだろう ... バンダナ巻いているのがいたよ」
「こいつかな」
「バンダナ巻いているの、バンダナの切れ端」

この日、私は16頭の犬たちに心の中で別れを告げた。バンダナを首に巻いた中型犬が、頻りに私の目を見つめている。

「ボクを捨てた主人は、アンタにそっくりなんですよ」とでも言いた気だ。

本当に不思議なことではある、どの犬もこれから我が身に起きる事態を知っている風情なのだ。

悲嘆に暮れる顔もあれば、諦め顔もある。長く尾を引く声で哭く犬、目で何事か私に訴える犬。困ったことに、どれも人間の顔に見えて来てしかたがない。

「あっ、これが上がるんだ、上に」
「ああ、そうか」

犬たちをケージから金属ボックスへと押し入れて、ガスを噴射して殺し、さらに焼却炉へと送って灰にしてしまう、一環式の自動装置がこの国で製造されているとは知らなかった。

「おぉ、自分から入ちゃったのがいるよ。自分から入っていっちゃった」

金属ボックスの中の様子は操作室のモニターテレビで見ることとなる。

【モニターを見入る辺見】
私は、首にバンダナを巻いた犬を目で追った。数十秒の苦悶のあと、みなが重なる様に打ち倒れてしまうものだから、どれがどれか判明できない。これは、確かに高性能で、怜悧で非情緒的な最新式装置だろうけれども、映像化された犬たちの最後の姿は何だか、フランシスコ・ゴヤ晩年のエッチングにも似て、おどろおどろしく、世界の終末さえ感じてしまう。私は、犬たちをまたも人間に見立ててしまった。

【モニターに金属ボックスの洗浄シーン】
【焼却灰を取り出すシーン】

「もう、ものだ」

16頭が処理工程の最後にやっとのことで一塊(ひとかたまり)の灰になった時、私は、いっそ、ほっとしたことだ。

犬の灰の一部は、この施設の花壇にひっそりとまかれていた。せめては、土に帰り、土を肥やし、花を咲かせて、その霊が常(とことわ)に宇宙を巡り、循環するよう、私は念じる。

【焼却炉の焔の反射を受ける辺見の眼】

【茨城県芳賀町】
「じゃ、じゃんぼって言うんですか」
「じゃんぼ」

テロップ:この町には土葬の風習が今も残っている

「面白いですねー、言い方が」
「じゃんぼができた」
「ええー」
「太鼓橋みないな」(屋根付きの渡り廊下)

テロップ:町の人々の2割が土葬されている

「私の小さい頃はすごかった。お坊さんが、ここを何人もね」
「ほー」
「で、あのー、おおっきい経典を」
「今はもうこういう風にきれいになってます」
「ねー」
「棺はどういう形してるんですか」
「木で ...」
「木の桶風 ...」
「桶じゃないです、長い、長いものです、はい」
「はーはー」
「花立のあるところは全部、人が埋まっている、ということですね」
「場所取りますですよね、けっきょくね」
「ですから1メーター50くらい。」
「掘って、1メータ近く掘りますかね、やっぱね」
「この辺も、だいたいそうだろうと思いますけれど、2体から3体くらい入る、4体くらい、せいぜい4体くら い入る敷地ですからね」
「なるほど」

テロップ:芳賀町役場 大谷津忠一さん

「ですから、だいたい、親の所へ子どもが入るという状態になるんじゃないかと思うんですけどね」

人を埋めた土と言うのは、どうして、こうもほっこりと柔らかなのだろう。まるで、焼きたてのパンだ。最初は、こんもりした土饅頭だったのが、仏さんが土に同化するに従い、土盛りが次第に沈み、何年も、何年も経て、遂には、平坦になって行く。それでも、土は、ほんわりと柔らかく、心持ち、温かいのだ。そして、この下に仏さんが居るんだよ、ここはお墓だよ、という印として、植えた立ち木は、何故だか、よく育つ、よく肥える。

「え、祖父が亡くなってからー、親父(おやじ)が亡くなる迄に、エー、何年くらいかな、20年くらいですかね。まだ、その時には、あの、形はちゃんとあります。」
「あー、あー」
「はい」
「やっぱり、100年、近くなんないとー、あれなんじゃねーのかなーと思います」
「ちゃんと土に帰る」
「ちゃんと土に帰るっていうのはね」

ここでは、仏さんが生活圏のすぐ近くに居る、声の届く距離に。

実は、夥しい数の死があるのに、まるで何にもなかったかのように、人の目から隠す都会のやり方とは全く逆だ。

この世のすべての実在、生きとし生けるものを、ただ有価物か、廃棄物か、有用か無用かに分類してしまう発想とも逆である。

【鳥の囀り】
ここにあるのは、死と生とが交換し合い、魂が永遠に山野を巡り巡る無限循環の仮説だ。弔いのねんごろなこと、その心根の優しいこと、その風景の眼に和むこと。

【ウミネコ。再びゴミ処理場を歩く長靴姿の辺見】
棄てられし一切のものに千体万状の魂が宿る、そう思って何悪かろう。塵にも、芥にも、残飯にも、ペットにも、家具にも、ガラス容器にも。

有用でも、無用でもない魂魄の大いなる連なりのどこかに私たちは生きて死ぬ。ものとして魂として、そう思って何悪かろう。

テロップ:作家辺見庸
世紀末の風景
棄(す)てられしものたちの残像

文 辺見庸 朗読 油井昌由樹 撮影 服部康夫 照明 谷口健二 音声 小材和彦 和泉幸 映像技術 後藤津男 音声効果 三瓶智秋 編集 鈴木和弥 構成 桑野太郎 制作統括 橋本裕次

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