蛭ヶ岳への落日
多摩境の境川の近くの小さな斜面に田端遺跡(田端環状積石遺構)がある。およそ、3000年から2800年程前の縄文後期から晩期にかけての住居、墓、祭祀の跡である。住居は150戸程の大集落で、隣接する小山白山公園の方にも広がっていた。環状列石は、縄文後期に特に東北・北海道で多く造られている。縄文は列島の北部が優勢だ。出土品には注ぎ口付き土器、玉などがあり、また、並べられ積まれていた石にも数種類が認められている。その道の専門家でなければ判断がつかないだろうが、その時代の生と死、あるいは、死と再生に関わる祭祀を考察する上で重要な意味合いを持つらしい。
付近が新しく整備されたのは去年ころだったと思うが、遺構には、環状列石のレプリカが布置されている。遺構は列石の祭祀場を中心に広場状に整えられているだけで、樹木もない。しかし、川に向う西南向き斜面に位置し、祭祀のロケーションとしては申し分がない。さらに重要なのは大きなパノラマを臨めたことだ。丹沢山塊の奥に富士山を望むからだ。また、冬至には丹沢のピークの一つである蛭ヶ岳に落日するという。日の運行を目当てに場所を決めたに違いない。橋本へ向う相模原線の鉄橋の上から北にあたるが、家やマンションなどが立っているものの、まさに丘陵に囲まれた土地相の良好な場所である。多摩に来たての頃、あの丘の向こうはどこに続いているのだろうかとよく思ったものだ。つまり、なんとなく誘い込まれる丘だった。地名は小山。小山ヶ丘は最近の地名である。小山町や境川を越えた東橋本や宮下本町の地割りは古く複雑で起伏が多い。小山側の丘からは一部暗渠化した沢が境川に流れ込む。今は、調整池になっているが、もともとは沼だった場所もある。だから、水が豊かだったのだ。縄文時代は森も濃く、生活するのに十分な動植物があったと思う。ただ、八王子の多摩NTの縄文遺跡は中期以降、数が減るということが分かっている。気候の冷涼化などに原因があると考えられる。ひよっとすると、田端あたりの谷戸は特別温暖だったのかもしれない。現に、近くに温泉が出ている。しかし、東京の地下は深度を下げれば大体温泉に当たることが多いともいわれている。それにしても、谷戸には寒いものとそうでないものがあるのも走って経験していることでもある。
話が逸れた。秀逸なサンセットビューの住居地や温泉、そして、霊園、斎場もあるこの地域は、縄文時代も暮らしやすい場所だったのかも…
付近が新しく整備されたのは去年ころだったと思うが、遺構には、環状列石のレプリカが布置されている。遺構は列石の祭祀場を中心に広場状に整えられているだけで、樹木もない。しかし、川に向う西南向き斜面に位置し、祭祀のロケーションとしては申し分がない。さらに重要なのは大きなパノラマを臨めたことだ。丹沢山塊の奥に富士山を望むからだ。また、冬至には丹沢のピークの一つである蛭ヶ岳に落日するという。日の運行を目当てに場所を決めたに違いない。橋本へ向う相模原線の鉄橋の上から北にあたるが、家やマンションなどが立っているものの、まさに丘陵に囲まれた土地相の良好な場所である。多摩に来たての頃、あの丘の向こうはどこに続いているのだろうかとよく思ったものだ。つまり、なんとなく誘い込まれる丘だった。地名は小山。小山ヶ丘は最近の地名である。小山町や境川を越えた東橋本や宮下本町の地割りは古く複雑で起伏が多い。小山側の丘からは一部暗渠化した沢が境川に流れ込む。今は、調整池になっているが、もともとは沼だった場所もある。だから、水が豊かだったのだ。縄文時代は森も濃く、生活するのに十分な動植物があったと思う。ただ、八王子の多摩NTの縄文遺跡は中期以降、数が減るということが分かっている。気候の冷涼化などに原因があると考えられる。ひよっとすると、田端あたりの谷戸は特別温暖だったのかもしれない。現に、近くに温泉が出ている。しかし、東京の地下は深度を下げれば大体温泉に当たることが多いともいわれている。それにしても、谷戸には寒いものとそうでないものがあるのも走って経験していることでもある。
話が逸れた。秀逸なサンセットビューの住居地や温泉、そして、霊園、斎場もあるこの地域は、縄文時代も暮らしやすい場所だったのかも…