「石に出で入るもの」― 町田相原蚕種石地区(まちだあいはらこたねいしちく)

 蚕種石(こたねいし)と呼ばれる地区が、町田の相原(あいはら)の近くにある。地図上で探すには、南の方からは、境川沿いの町田街道上、久保が谷戸の西を探し、やや北からは、野猿(やえん)街道の鑓水(やりみず)から東京環状16号を南に下った坂下(地名)辺りを見ればよい。かつてはひっそりと蒼い谷戸だったのだろうが、今は細切れの緑地が残るばかりだ。同地名は、2万5千分の1の地形図「八王子」に印されている。ランニングのコース取りの参考に地図を見ていて気付き、最初読めなかった。多摩美を過ごして野猿街道と16号が交わる辺り、今現在では天然温泉(住所は町田市相原町字蚕種石)、アウトレット、さらにはシティ・ホテル(町田市小山ヶ丘)まで集結する空間とはやや外れているのだが、大した理由もなくここら辺りが蚕種石であるというイメージが自分の中に定着してしまっている。鑓水の方面は、小さな崖が多く、また、視点を引いて、広域的に見ると御殿峠、七国峠という小ピークに囲まれたやや窪んだ湿り気の多い場所なので、何かが籠るイメージが頭の中で凝結したのかもしれない。水気は多い。鑓水には伏流水があり、また、南には境川や、それに流れ込む名の知れない小沢もある。相模原市、町田市、八王子市の三つに跨がる広がりだ。
 蚕種石は養蚕に因んだ祠(ほこら)である。石は、多摩境駅側(そば)の札次(さつつぎ)神社の境内にもある。夏も近づく八十八夜に緑に変色し、蚕の孵化を告げるなど、養蚕の神として祀られた雑祠と言ってよいだろう。だが、この表(あらわ)しは、単なる蚕の供養ためのものではない。折口(信夫)流にいえば、蚕の魂が籠る。同時に、人の魂も込められるのだろう。
 折口信夫は、昭和七年、『郷土』第二巻第一~三号合冊「石」特輯号に「石に出て入るもの」という口述筆記文を載せている(『折口信夫全集』19、中央公論社、1996年所収)。これは、論文というよりも講演の原稿に近い。そこで、折口は、石に籠り、そこから出て行く魂という考えを興し、この思考の流れに関わる語彙群の「濃厚な」意味論を展開する。「濃厚」と言ったが、少々抹香臭い語源的な考察だ。だが、語感センスの鋭さと、それが切り裂いて行く独自の思索の奥行きに敬服する。意外な語群が重なり合った意味野の元に再提示されて息を吹き返す。論考は、恩師の柳田国男の「石神問答」の主題を彼流に発展させたものだ。折口は、道祖神、石が子を産むこと、そして、外来の石信仰という三つの主題を「石誕生」問題とする。石には魂が籠り、成長し、そこから何かが生まれるものと捉ている。

○玉(たま)― 魂(たましい)
 古代に於いて、玉(たま)は、必ずしも玉(ぎょく)や、ファイン・ストーンである必要はなかった。つまり、心眼を得れば石ころでも玉となる。玉は、持つ人の守護となる精霊の憑代(よりしろ)である。翡翠(ひすい)や水晶、真珠を別として、この列島には、元々、宝石やそれに近い玉は少なかったと考える。巫祝(ふしゅく)では、玉、石、骨、貝などが玉と看做された。これらは、内部に何かを心的に包蔵することを共通の性質として持つ。人の体の内に在るものが「たま」であり、それが実際に働く場合には、「たましい」と言う。言語的にも「玉」と「魂」は同根であり(岩波古語)、前者の「たま」は守護精霊の憑代から、魂の宿る聖なるものを表す接頭辞になった。「玉櫛」、「玉串」、「玉梓」等である。

○うつぼ―うつ―かひ(木洞・現・卵・殻)密な「空っぽ」を内蔵すること
 たましいを入れるためには中が空である必要がある。そこで、「うつぼ・うつほ」に含まれる「うつ」の語義に移る。「うつほ(ぼ)舟」は、丸木の中を抉(えぐ)って作る舟、「うつほ柱」は、宮殿にある箱形の雨樋のことで、どちらも、中が空(くう)で、人を乗せ、また、雨を通す。からっぽということだが、別の見方をすれば、全体が行き渡った等質的な空間があるという語義が抽出される。「うつ室(無戸室)」とは、木花之開耶姫(このはなのさくやびめ、紀では、鹿葦津姫かしつひめ、神吾田津姫かむあたつひめ、とも)が火中で出産するときに籠る産小屋(うぶごや)である。皇孫天津彦彦瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)が、姫を一夜召し、姫はそれで懐妊する。古事記では、戸のない八尋殿(大きな御殿)を土で塞いだものとある。空なのに少し妙だが、その状態が全体に行き渡り、それが密になっていることを示すのだろう。上代語には「うつたへに」(「まったく~(ない)」)という否定対極表現があったが、折口は、「うつ」の「まったく、そのまま」という方の語義が移ったものと見ている。このケースでは、「全体、もろ、そのまま」という二番目の語義は卓立しないが、「全剥(うつは)ぎ」(「真名鹿(まなか)の皮を全剥(うつはぎには)ぎて、天羽韛(あまのはぶき)に作る。」神代上)、そして、やや時代が下がるが、「うつほに」は、下衣を付けずに直(じか)に衣を着ることであり、もう少し分かりやすい(例、「袖口いたくすすけたるを、うつほにて打ち掛けたまへり」源氏玉鬘、岩波古語)。「全服(うつはた)」は、機で織った布を裁縫せず、そのまま着る服であり、「うつたへ」も同じ物であると見ている(うつ楮、「たへ」は「服」の美称。「妙服(にきたへ)」参考)。巫女(みこ)が着る袖を縫わず紙縒(こより)で括(くく)る白単衣の襅(ちはや)がその継承形らしい。これは、元々、厳粛な場面で身につける切れ目、縫い目の全くない襲(おすい)であり、その内部に人が籠るということだ。
 内部が、充実している語義を持つ「うつ」は、「うつし心、うつし身、うつし世」に出ると考えられている。折口は、これらの語に含まれる「し」を属格(領格)と見ているようだ。通例、「うつしごごろ」の「うつし」は、形容詞の「現し、顕し」と解される。折口は、だが一歩遡り、領格「し」を含む「うつ・し」から形容詞語尾に転成したとする。しっかりと魂の入った正気の心が「うつしごころ」であり、「うつし世」は、人の命、魂を積算して、それが充満した社会ということになる。「うつほ」の「ほ」は、神の心を表す印、兆しで、全体として魂の入るべき空洞の意という。だが、うつほの木は、内部は空だが、穴のない、つまり、入り口がないという矛盾した性質を兼ね備える。そのような木は聖なるものである。かぐや姫や宇津保物語の竹や木も本来は、そのような稀なるものと信じられていた。岩には洞穴のようなものを考えることがたやすいが、石は、先ほどの矛盾する性質を備えた最たるものだ。石信仰の中心に石がうつなる内部を持ち成長すると信じる心がある。
 だが、入り口がないにもかかわらず、どうして内部の様子について言えるのか。そこで、古代の人間は、石が成長し、これがまるで種が割れ、双葉が出るように子どもが出て来ると考えたと言うのである。キーワードになるのは「かひ」という語である。現代語で「かひ(かい)」は、言うまでもなく第一に「貝」を指すが、古語では、それよりも広い対象をカヴァーしていた。卵、そして穀物の殻として穎(かひ)があった。つまり二つの殻が合わさって一つの貝、穎が成る。貝割れ大根の類い、つまり植物のスプラウトは、種子である「かひ」が割れ、双葉が出始めた幼苗である。それゆえに、「かいわれ葉」と呼ぶ。中に何かを含むことで、古代語で「かひ」は「うつ」と同じ意味野にあることは了解できよう。しかし、古の時代に、両者にどのような意味の違いがあったかは不明だ。
 蚕の「かひ」は、卵、穎、貝群とは異なるものと推測されている。しかし、折口は、蚕が変身する「まゆ」は、「うつ」、「かひ」と共に魂の籠り場所であると考える。母胎に籠り、それから出て来るプロセスは、蚕も、鳥も、植物の種も一緒だという古代人の見方である。誕生を表す動詞「生む」は、実は、籠りの意味もあり、空の空間を埋める意味でもある「うづむ」から「づ」が取れて出来たのではないかとまで推測している。逸れるが、貝の「かひ」は、原始西マライ・ポリネシアの*kapis(タガログ語kapîs)、殻の「から」は、*káraq(タガログ語kala?)と関係付けられることもある(川本崇雄『オセアニアから来た日本語』東洋出版2007、101頁)。つい余計なことを見てしまった。
 とにかく、「うづむ」は、中をいっぱいにするので内部は充実することになる。そこから少し、折口的な飛躍により、笛や、刀の鞘の話になる。作製上のプロセスとして当然ということ(特に刀の鞘は丸木を彫り穿つことは困難)で流してしまうのではなく、元々「かひ」のように合わさったものに吹き手のたましいや、刀身を閉じ込めるべく二つに割った竹や、木材を合わせて蔓で巻くことになったと考えている。

○ひる―ひひる―ひるま(蝶・蛾・蚕・おしら様・ニラ・お昼)ひらめく・籠りからその外へ出る瞬間
 神聖な武器の稜威(いつ)の高鞆(たかとも)は、天照大神が素戔鳴尊から身を守るべく防備する行(くだり)に出る(「躬(みみ)に十握剣(とつかのつるぎ)・九握剣(ここのつかのつるぎ)・八握剣(やつかのつるぎ)を帯(は)き、又背上(そびら)に靫(ゆき)を負(お)ひ、又臂(ただむき)に稜威の高鞆を著(は)き…」紀、神代六段)。高鞆の「たか」が竹であるとするという仮定の下で、この雷の様な決定的な霊力・威力のある鞆(とも)に弭(ゆはず)が当たり、音を出すことで鞆にも籠る魂が振動する。当然、弓本体にも魂が込められ、弭が鳴ることで発現するのだけれども、その音と弭が鞆を打つ音とが共振すると考えられる。弓のたまの活動(=たましい)とシンクロナイズして鞆の音(ね)が加わる訳である。たまの発動は威嚇になり、弦打ちの儀式(鳴弦の儀)ともなって行ったのだろう。
 そうすると、刀の鞘は、刀、つまり蛇の精霊を斎(いつ)き納める空間と考えられるようになる。その「蛇」をしっかりと収めるために、蛭巻きなどを鞘に施す訳だ。蛭巻きは籐の蔓で、鞘をスパイラル状に巻き上げるものである。最初の密閉の機能から、後には、装飾的な紋様となり、銀など貴金属の帯で鞘を巻くようになった。ところで、蛇と蛭とは別物である。だが、状況如何で、刀身と蛭は血を「吸う」という点で視覚的な共通性を認める事ができなくもない。日女命(=アマテラス)が持った十握剣は、素戔鳴尊が大蛇を斬る時には「蛇之麁正(をろちのあらまさ)」、「天蠅斫剣(あめのははきりのつるぎ)」と呼ばれる。二番目は、『古語拾遺』に「天羽々斬」と出るが、「羽々」も「蠅」も蛇を指す。
 蛇行鉄剣という祭祀的な剣というものがある。諏訪盆地や栃木から出土する蛇の這う様を象った剣である。また蛇の蛇行運動を「ひろめく」つまり「ひひる」というので刀が動く様も「ひろめく」と云われていたようだ。それを反映する逸話が『播磨国風土記』、讃容(さよ)郡、中川(なかつがわ)の里の話に含まれる。大筋は以下である。「天智天皇の御代に、丸部具(わにべのそなえ)という里人が河内の人から剣を買い取ったが、その後,一家が全員死んでしまった。苫編部犬猪(とまあみべいぬかゐ)が、廃屋の土地を耕すと、この剣が出土し、その周りの土は一尺ほどの空洞が出来ていた。刀の柄は朽ちかけていたが身は輝いていた。家に持ち帰り、鍛冶職人に刃を焼かせたところ、剣は蛇のように伸び縮みして職人を驚かせ、職人は仕事を中断してしまった。犬猪は、この霊剣を朝廷に献上したが、暫くして送り返され、今でも里の宮宅に保管してあるという。」埋めてあった周囲に空間ができていたということは、鞘に収めぬ刀身は、ひろめき動くということを暗に示すのだろうか。
 養蚕に関わる民間信仰の「おしら様」は、「しら」は「ひる」つまり、古代語の「ひひる」であり蛾・蝶のことである。蚕は繭の中にいる時も「ひひる・ひる」と呼ばれたと考えている。「ひる」が繭の中に籠る。刀の鞘の蛭巻きも、内部にあるたましいを確かに保管するために施したという道筋を付ける訳である。
 植物の「韮」を表す語の「にら、みら、ひる」は、野蒜、アサツキ、ニンニクなどの総称である。もともとは、同根であり、どうやら「ひる」から「にら」が出たと考えているようだ。「みら」から「にら」でのm > nの変化は十分根拠がある。でも、Firu > mira の変化は、そのままの形では自然とは思えない。その他の語形には、「かみら」、「くくみら」がある。賀美良(記)の「か」は、香、匂いの「か」とされる。

伎波都久の丘の茎韮(くくみら)我摘めど籠(こ)にものたなふ夫(せな)と摘まさね 万三四四四 (久君美良と作るケースあり)

「くく」は、「くき」の訛化としてよさそうだ。「ひる」と「みら」の関係は不明である。「ひる」が「ぴる」であったと仮定して、「みら」は、実は鼻音先行子音を基底に持っており、*pmiraからpが脱落したとすれば、piraとの関係は設定可能かもしれない。あるいは、p > mという単純変化を想定すれば、無理に*pmiraというファントム形を想定する必要はないので、調音点近接の後者の仮定の方が自然だろう。ポリネシア祖語想定形の*pepeは、マオリ語ではpee-pepeと言い、「蝶・蛾」を示し、pepeは動詞で、羽根がひらめく様を表現する。また、サモア方言でもpepeが「蛾・蝶」を表す(川本崇雄、前掲書, 120頁参照)。
 韮の緑の茎の下、土の中に白い球根があり、これを「たま」と見立てたとも考えられる。折口が示唆している風な方向である。若しくは、韮類の白い花が風に揺れる様が「ひひる」がひらひらと飛ぶのに似ていると見たとも考えることができる。ドクダミという薬草は、林の日陰に、テキレキたる白い花を咲かせるけれど、これを見ると、個人的に「ひひる・ひる」というイメージを持つ。
 鳥と蝶は、羽根で飛ぶことも同じだが、卵、つまり、「かひ」から生まれる点でより一層、言語表象の点で同じドメインにあると折口は言う。実際、平安時代以降、衣の紋様の意匠を中心に「てふとり」という語が存在していた。
 次の一首は、人麻呂が石見国で亡くなったのをその妻が悼んで詠んだ「たままぎ」の歌である。

今日今日とわが待つ君は石川の貝[一云、谷に]に交じりてありといはずやも 万二二四

「貝(かひ)」の扱いに困り、「甲斐国」の「甲斐」の「狭い谷」の意に靡いた解釈を促す注釈が付けられている。折口は、これまでの考察をここに当て、「たままぎ」と同時に、「たまごひ」の歌であって、(遠くで)亡くなった者のたましいが「かひ」のようなものに籠り、それを探しに行くことを詠んでいるとする。亡くなった人の「たま」は、岩根のふもとの石や、川原の石のなかに籠っていると見当がついており、これを求めに行くのが「たまごひ」ということだ。蚕玉石(こだまいし=こたねいし)の信仰も蚕を護るたましいが宿っていると思われる石を選んで持って来ることから起こったと述べる。

ひるこ(日子)、ひるめ(日孁、日女)の論に移る。ひるこ(蛭子、水蛭子)「蛭のように手足の萎えた子」は、イザナギ・イザナミが生む第二子で、三つになっても立たなかったので天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に乗せられ海に流される。岩波古語では「ひ+る」と分たれ、「る」は、「よ+る」(「夜」)にも出る接尾辞とされる。折口は、これとは異なる語構成を考え、「る」は、領格「の、ぬ」の音変化による形成とする。「ひ+ぬ+こFi+nu+kwo」→「ひ+る+こFirukwo」(「日の子」)という風になる。この説では、「ひる」も「ひぬ」という自立語+附属形式の不完全形から出たことになりそうだ。岩波古語でも「日女の命」の「る」は「連体助詞」としている。上代語領格には「る、ぬ、つ、が」があり、「る」は「ぬ」の変化形ということになりそうだ。これ以上は踏み込むのを止め、「ひるめ」自体の話に行こう。
 「ひるめ」とは「尊い人に禊ぎの水を進める神女」のことで「みぬま・みぬは・みつは・みつめ・みぬめ・みるめ・ひぬま・ひぬめ」と同系統の源の語であるとする。「大日孁貴(おほひるめのむち)」は水の神であると考えている。もともとそうであったが、古代信仰の一フェーズで日神が階層のトップとされたのを契機として日神ともなった。
 「みつはmituFa」(罔象。此云美都波。「此をば美都波(みつは)と云ふ。」紀巻一第五段一書第二)中国史書に出る罔象は水の精霊で、荘子釈文にはその形状が「小児、赤黒色、赤爪、大耳、長臀」とある。岩波『日本書紀(一)』39頁、注八)は、その通り水神だが、「えびす」と結びつくことになる「ひるこ」は、水とはもともと関係が薄い。だからと言って、「日」ととも関係付けるのは、後世の「合理会」の技であり、明確な特徴付けはなされないが、体の発育が不全である「蛭」という方面に折口の思索は靡いているようだ。罔象を、「み・つ・は」と分析し、水と蛭の形態から押して、水蛇、蛟(みずち)と同定する考えもある(谷川健一『続 日本の地名―動物地名を訪ねて―』岩波新書、87頁)。
前段冒頭に掲げた語群「みぬま・みぬは・みつは・みつめ・みぬめ・みるめ・ひぬま・ひぬめ」を見ると、「筑紫の水沼君(みぬまのきみ)」、三潴(みずま、福岡県三潴郡)、阿波国美馬(みぬま、みま)、反正天皇・瑞歯別(みずはわけ)を思い出さずにはいかない。言うまでもなく、蛟(みずち)は、安曇、宗像等海神族の神である。「み・つ・は」と分けた場合の「は」であるが、「這う」から来た蛇類の名称「はは」の縮約形、あるいは、「食む(噛む)」に由来するものとなろう。魚の鱧(はも)も、その形態、鋭い歯により蛇とみなされ「はむ」が原型だったらしい(谷川前掲書76頁)。尚、『水の女』という論が、折口にあり (「折口信夫全集 2」中央公論社、1995)、「みぬま」も含む水に関する語彙を文献学的に分析しているので精読してみたい。
 「ひるま」は時間の区分を指すが、同じ時間区分を「ひるめ」で言う場合がある。神楽歌の昼目歌(ひるめうた)から察すると、最初、「ひるめ」は、日が高く上った日中ではなく「夜明けの、朝日の昇る時刻」を言うらしい。また、儀式的な食事と関係し、田植え神事にそのルーツがありそうである。古代の一日の食事回数は、二度と考えられている。「朝餉」と「夕餉」が基本で、貴人は、午前10時ころに特別なものがあった。今日的な「お昼」はなく、田植え時の神事に絡む。

「朝餉(あさかれひ)」夜の開けないまだ暗い早朝の小さな食事
「大床子(だいしょうじ)の御物」宮廷で10時頃食べるもの
「昼餉」儀式的なもの、これが「ひるま」となる。神への供物
「夕餉」夕方の食事

 現代に伝わる田植え神事では、「昼間持ち」は、田植えのときに「ひる」を運ぶ男(蛇と瓢簞を棒の両端に担ぐ孕み女の姿をとる場合がある)である。神聖な食事は、時代が下ると「田植え飯」となって行ったのであろう。「田植え飯」は、田の神と共に頂く物である。「昼間持ち」で神に給仕する巫女の「オナリ」は、田植え作業を行う早乙女達の中から選ばれる。「オナリ」は、田植えの時に出現する男神のために殺されたり、あるいは、生け贄のように皆に陵辱されることがある。地方の言い伝えには、「ひる」を穢(けが)しそうになったオナリが、村男達に責められ沼に身を投じたり、あるいは、預かった赤子を死なせてしまい、自らも死んでしまうという風なものが残る。『播磨国風土記』、揖保郡、萩原の里の話で、神功皇后の従者らが、米を搗(つ)く女達と交わり、陰部を婚断(まぎた)ったので陰絶田(ほとたちだ)と名が付いたという話が出る。その後、この土地は栄えることになった。田神への贄(にえ)の奉納とその後の反映という図式を持っている。また、田植えのひるまに、村人は巫女に選ばれた娘と交わることもあったという。こういった文脈に置くと、現代に残る「蛇と瓢簞を棒の両端に担ぐ孕み女の姿」という表象は、田神と殖産・子孫繁栄のシンボルとして非常にリアルでふさわしいものとして映るが、ここでは、三つの要素の分析はしないで、先に進もう。
 端的に言えば、「ひるま」は、日中における男女の共寝も暗に意味したというのだ。それを仄めかす証拠として、源氏物語の帚木の雨夜の品定めで、藤式部丞がある面白い女性の話をしたことを挙げる。ある日、式部丞が、女性を訪ねた折り、女性は養生のため韮を食し、その匂いのため、逢う事を憚るそぶりを見せたので、式部丞が去ろうとした際に、女性が「逢ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまもなにかまばゆからまし」と誘いの歌を詠んだ。つまり、昼の共寝は憚られるが、「二人の仲ならば…」ということである。日中における巫女との交わりは田植えの時だけ、例外的に許されたらしい。本題から少し逸れるが、「間男」の「間」が「ひるま」の「ま」かもしれないと思いもする。
 時間区分の話に戻り、「ひる」の意義論が「よ」と対照してなされる。「夜」は、うつろに籠る状態であり、同音の「竹の節(よ)」と同類である。そして、それから出始めた状態が「ひる」であるという。つまり、夜と昼は、中にいるのと出ていることの違いである。何が籠り、何が出るのか。それは、勿論、たましいである。
 最後に、「いし」と「いは」の心的な違いについて寸述があるが、たましいが籠っている「いし」を「いは」というようになったとする。
 以上、約したように「かひ」にたましいが籠り、そこから出て来るという古代の生命観から、そこから派生した身近な動物類の語彙、さらには、時間区分の語彙へと奥行き深く論が進んでいる。生活世界に深く根ざした語彙をめぐる思考は、物質経済とは無縁に近いが、生きられる時間の豊かさを増してくれる思いがする。折口の言葉で近いものは、『生活の古典としての民俗』にある。「譬へば、古事記・日本書紀・万葉集などを読んでも、気分の上の影響を問題にしなかったら、直接の利益と言う様なものは何もないかも知れない。しかし、此れを読む事によって何となく、背景のある、うるほひのある生活が求められる。此れと、ちょうど同じ様な事が、実際生活にもある。民俗は、即、生活の古典である。」(「折口信夫全集19」中央公論社、1996年所収、179頁)。
 町田の蚕種石という字(あざ)は、もう絶滅寸前かもしれない。近辺で養蚕はとうの昔に消えている。また、多摩境方面からの集合住宅、戸建住宅、そして人口増加を見越した大規模商業施設の開発の波がものすごく、周囲も今後益々様変わりが続くだろう。八王子バイパス建設時には、付近は遺跡を多く出した。その中に南多摩窯跡群の一部も含まれる。また、近くには鑓水商人の活躍を忍ばせる「絹の道資料館」があり、このあたりは生糸の集積と輸送だけでなく、実際の養蚕が盛んだった。それも、北は八王子、南部は、相模原台を含む広域でそうであった。相模の国では、厚木周辺が古くから養蚕が盛んで、相原を含む相模原の開墾地域(清新など)では、明治の頃、養蚕は農家の現金収入の柱になっていた(相模原清新公民館HP、http://www.sagamihara-kng.ed.jp/kouminkan/seishin-k/chiiki/machi02.html参照)。
 近接する山梨の上野原、八ツ沢には、蚕種石神社があり、百八炬火(ひゃくはったい)という夏の行事が残る(上原市HP、http://www.city.uenohara.yamanashi.jp/kanko/matsuri/kotaneishi.cfm参照)。藁松明を持って、山を下る姿は、山道の曲がりの沿って蛇のように見える。同じ祭りは、秦野の下大槻(しもおおつき)、瓜生野(うりうの)にも、また、南アルプスの麓、川根にも見える。秦野の名はズバリ、養蚕・機織りを示す。
 蚕種石が、蒼く色が変わるのは、湿度と温度が十分になり苔がむすためらしい。つまり、蚕の生育に適した時期を告げる自然の合図ということだ。相原の蚕種石地区は、湿度も十分で、また、天然温泉も地中にあり、苔の生育に好条件だったのかもしれない。この合理的説明もよいが、生き物は「かひ」に籠り、それを割って出て、また「かひ」に籠るという心性の方も、生活世界認識の方法として十分に合理的だったのだろう。