意匠のサイクル 9
1985年 ―インデクスシフトと円ショック
MTBとインデクスシフトの人気は、ほぼ2年間、自転車市場を覆った大きな変化だった。シマノは変化に適合し、そして成長した。実際、シマノは、1985年にインデクスシフトSISを導入している。サンツアーは、これに1年遅れ、それでシェアを失った。ユーレーとカンパニョロの動きは鈍く、2社は、アメリカ市場での重要性を失いつつあった。
サンツアーは変化に対応すべく格闘してのだが、円の切り上げがこれを阻んだ。1985年、アメリカ、カナダ、ドイツ、イギリスは、莫大な額の対日貿易赤字に苦しんでいた。5カ国の首脳は、その年の中頃に会合を開き、G5同意を取り決めた。続く半年間に、円は1ドル240円から125円となった。
「円ショック」は自転車業界に甚大な影響を及ぼした。1985年当時、日本の自転車産業大手は、アメリカのディーラーにフルラインで輸出していたが、円ショック後、中価格帯市場で十分に利益を上げることができなくなり、そのマーケットは、台湾、のちに中国へと急速に移行する。日本の労働賃金が上昇し、対ドル円高が進んだため、高価な自転車だけが日本から輸出されることになった。
サンツアーを含む多くの日本部品産業が、台湾での枝工場設置に急いだ。しかし、台湾の建設業は、十分な速度で工場を建設できなかった。シマノは、1973年に既に、シンガポール工場を建設してあり、低価格ラインはシンガポールへ急速に振り向けられた。
私は、シマノがSIS(シマノ・インデクシング・システム)を加えたデュラエースEXを発表した1985年のバイクショーを覚えている。そのとき、そんなに大きな反響はなかったように思われる。シマノのブースでは、楕円チェーン・リング「バイオペース」が騒動を呼んだのがせいぜいだった。シマノのエンジニアたちは自信たっぷりだった。業界関係者は、AXの問題に関心があり、そのときのインデクスシフターは、従前のフリクションシフトの予備を備えていた。
シマノのインデクスシフトの発展は興味深い話だ。エアロAXの大失敗の1年後、シマノは、アメリカの成人自転車マーケットの大掛かりな調査を依頼した。ハードなレース指向、ツーリング熱からユッピーに移行しているというのが調査の結果だった。ユッピーは、レース仕様であるが使い勝手がよい部品を求めていた。これは、35mmオートマティックカメラへの移行と同じような市場の変化だった。
SISは、主要な研究プロジェクトだった。それは、戻り留め装置がついたシフトレバー以上のものだった。決め手となった新機軸は、SISデュラエース7400のリアディレーラーだった。サンツアーのスラント・パンタの特許権がすでに失効していた。そこで、シマノのSISディレーラーは、40年代にサンプレックスが開発した、ダブルテンションとサンツアーが64年に開発した平行スラント・パンタ方式を合体させた。それは、コンピューターで設計された初めての変速機だった。設計はケージ位置とスプリング・テンションを最適化することで、ほぼ一定のチェーン・ギャップを出すようになっている。このことは、確実なインデクスシフトには不可欠だった。シマノは、一つの要因を突き止めた。乗車可能な変速調整レンジである。これにより、どの程度調整がずれても依然として乗車可能なのか、そのズレを測定できるようになった。
短い試乗の後、プロライダーは、デュラエースAXの使用を拒んだ。そして、これが、エアロダイナミックコンセプト失敗の主因であった。シマノは、プロレーサーたちは、SISデュラエースなら受け入れると踏んだ。1984年と85年にシマノの2つのプロチームがSISデュラエースを使用し、メカニックと技術者がレースに同行した。問題は、迅速に特定され、修正されて日本本社に報告された。シマノは、ポジトロンの経験から低価格自転車で変速コントロールを向上させることを学んでいた。SISは、トップレベル(デュラエース)から低価格レベルまで導入された。最初のSISデュラエースのギア部品は、訓練されたメカニックによりトップクラスの自転車に組み付けられた。
サンツアーは、1985年にピークに達していたが、だれも知らなかった。この年のカタログには26のディレーラーが載っている。サンツアーは、当時、フリクションシフトのギア周り部品で最もすぐれた質と価格の組み合わせを実現していた。3つのロード車用コンポーネントがあった。シュパーブ・プロ、シュパーブ、そしてサイクロンである。新しいクロスカントリーMTBコンポには、マウンテックのジョッキー・プーリーにあった欠陥を修正したディレーラーが投入された。
ローラー・カムブレーキがウィルダネス・トレイル・バイクから認可された。サンツアーが、ブラスローラーをプラスティックに換えた時から初期の問題が発生した。MTBにつけてオフロードで使用するとパフォーマンスの質はすぐに低下した。サンツアーは、ブラスのローラーを後から付けるハメになった。
BMX(バイシクルモトクロス)が、主要なマーケットに成長し、サンツアーは、それ向けのアノダイズドカラーのフルコンポを販売した。それにもかかわらず、アメリカ市場でのシェアは6割から5割へ転落した。
最大の単独要因は円の切り上げである。注文は、円ではなく外貨建ての習慣だった。サンツアーは、大きな損失を被り、また、台湾への移動と新たなMTBコンポーネントの開発のため借金を余儀なくされた。
サンツアーは1985年、アメリカの自転車ショーで、特化した話題のミーティングを3つ主催した。どのミーティングにも約20ほどのディーラーが参加した。サンツアーは、ディーラーにシマノのインデクスシフトをどう思うかを尋ねた。複雑すぎ、また高すぎ、そして、またシマノの気まぐれだというのが一致した意見だった。このアドヴァイスに乗っかり、サンツアーは、SISへの対応をあと1年は延ばせると判断した。これは完全な間違いであることが後になって判明する。サンツアーに猶予の1年はなかったのである。
翌86年は節減の年だった。サンツアーは、グループセット「スプリント」を発売し、価格は、サイクロンとシュパーブの間に置かれた。スプリントは、素晴らしいヴァリューを持ち高級感があったがインデックス式ではなかった。シュパーブ・プロはラインから外された。
1986年にSISは、デュラからミドルクラスの600、そしてLへ浸透した。SISが品不足になり、シマノは、バイクメーカーが、決定的に重要なギアトレインのコンプリートセットを買うと主張できた。また、バイクフレームの基本設計がシマノの設定に合致すると言うこともできた。店から、インデクスシフトバイクが飛ぶように売れた。マキシムは「クリックしなければ売れない」であった。
シマノは、サンツアーのOEM(相手先商標製品製造会社)市場における顧客を制圧した。シマノのコストは、ずっと低かった。低価格部品はシンガポール工場で製造されたからである。サンツアーの国内工場は依然、円ショックに苦しみ、台湾やシンガポールの価格と張り合うことは不可能であった。アメリカでのシェアは4割に落ち、86年にシマノが追い抜いた。サンツアーは、巨額の損失を出し、サンツアーUSAは、損失補填のため、在庫品を担保に借金をした。
MTBとインデクスシフトの人気は、ほぼ2年間、自転車市場を覆った大きな変化だった。シマノは変化に適合し、そして成長した。実際、シマノは、1985年にインデクスシフトSISを導入している。サンツアーは、これに1年遅れ、それでシェアを失った。ユーレーとカンパニョロの動きは鈍く、2社は、アメリカ市場での重要性を失いつつあった。
サンツアーは変化に対応すべく格闘してのだが、円の切り上げがこれを阻んだ。1985年、アメリカ、カナダ、ドイツ、イギリスは、莫大な額の対日貿易赤字に苦しんでいた。5カ国の首脳は、その年の中頃に会合を開き、G5同意を取り決めた。続く半年間に、円は1ドル240円から125円となった。
「円ショック」は自転車業界に甚大な影響を及ぼした。1985年当時、日本の自転車産業大手は、アメリカのディーラーにフルラインで輸出していたが、円ショック後、中価格帯市場で十分に利益を上げることができなくなり、そのマーケットは、台湾、のちに中国へと急速に移行する。日本の労働賃金が上昇し、対ドル円高が進んだため、高価な自転車だけが日本から輸出されることになった。
サンツアーを含む多くの日本部品産業が、台湾での枝工場設置に急いだ。しかし、台湾の建設業は、十分な速度で工場を建設できなかった。シマノは、1973年に既に、シンガポール工場を建設してあり、低価格ラインはシンガポールへ急速に振り向けられた。
私は、シマノがSIS(シマノ・インデクシング・システム)を加えたデュラエースEXを発表した1985年のバイクショーを覚えている。そのとき、そんなに大きな反響はなかったように思われる。シマノのブースでは、楕円チェーン・リング「バイオペース」が騒動を呼んだのがせいぜいだった。シマノのエンジニアたちは自信たっぷりだった。業界関係者は、AXの問題に関心があり、そのときのインデクスシフターは、従前のフリクションシフトの予備を備えていた。
シマノのインデクスシフトの発展は興味深い話だ。エアロAXの大失敗の1年後、シマノは、アメリカの成人自転車マーケットの大掛かりな調査を依頼した。ハードなレース指向、ツーリング熱からユッピーに移行しているというのが調査の結果だった。ユッピーは、レース仕様であるが使い勝手がよい部品を求めていた。これは、35mmオートマティックカメラへの移行と同じような市場の変化だった。
SISは、主要な研究プロジェクトだった。それは、戻り留め装置がついたシフトレバー以上のものだった。決め手となった新機軸は、SISデュラエース7400のリアディレーラーだった。サンツアーのスラント・パンタの特許権がすでに失効していた。そこで、シマノのSISディレーラーは、40年代にサンプレックスが開発した、ダブルテンションとサンツアーが64年に開発した平行スラント・パンタ方式を合体させた。それは、コンピューターで設計された初めての変速機だった。設計はケージ位置とスプリング・テンションを最適化することで、ほぼ一定のチェーン・ギャップを出すようになっている。このことは、確実なインデクスシフトには不可欠だった。シマノは、一つの要因を突き止めた。乗車可能な変速調整レンジである。これにより、どの程度調整がずれても依然として乗車可能なのか、そのズレを測定できるようになった。
短い試乗の後、プロライダーは、デュラエースAXの使用を拒んだ。そして、これが、エアロダイナミックコンセプト失敗の主因であった。シマノは、プロレーサーたちは、SISデュラエースなら受け入れると踏んだ。1984年と85年にシマノの2つのプロチームがSISデュラエースを使用し、メカニックと技術者がレースに同行した。問題は、迅速に特定され、修正されて日本本社に報告された。シマノは、ポジトロンの経験から低価格自転車で変速コントロールを向上させることを学んでいた。SISは、トップレベル(デュラエース)から低価格レベルまで導入された。最初のSISデュラエースのギア部品は、訓練されたメカニックによりトップクラスの自転車に組み付けられた。
サンツアーは、1985年にピークに達していたが、だれも知らなかった。この年のカタログには26のディレーラーが載っている。サンツアーは、当時、フリクションシフトのギア周り部品で最もすぐれた質と価格の組み合わせを実現していた。3つのロード車用コンポーネントがあった。シュパーブ・プロ、シュパーブ、そしてサイクロンである。新しいクロスカントリーMTBコンポには、マウンテックのジョッキー・プーリーにあった欠陥を修正したディレーラーが投入された。
ローラー・カムブレーキがウィルダネス・トレイル・バイクから認可された。サンツアーが、ブラスローラーをプラスティックに換えた時から初期の問題が発生した。MTBにつけてオフロードで使用するとパフォーマンスの質はすぐに低下した。サンツアーは、ブラスのローラーを後から付けるハメになった。
BMX(バイシクルモトクロス)が、主要なマーケットに成長し、サンツアーは、それ向けのアノダイズドカラーのフルコンポを販売した。それにもかかわらず、アメリカ市場でのシェアは6割から5割へ転落した。
最大の単独要因は円の切り上げである。注文は、円ではなく外貨建ての習慣だった。サンツアーは、大きな損失を被り、また、台湾への移動と新たなMTBコンポーネントの開発のため借金を余儀なくされた。
サンツアーは1985年、アメリカの自転車ショーで、特化した話題のミーティングを3つ主催した。どのミーティングにも約20ほどのディーラーが参加した。サンツアーは、ディーラーにシマノのインデクスシフトをどう思うかを尋ねた。複雑すぎ、また高すぎ、そして、またシマノの気まぐれだというのが一致した意見だった。このアドヴァイスに乗っかり、サンツアーは、SISへの対応をあと1年は延ばせると判断した。これは完全な間違いであることが後になって判明する。サンツアーに猶予の1年はなかったのである。
翌86年は節減の年だった。サンツアーは、グループセット「スプリント」を発売し、価格は、サイクロンとシュパーブの間に置かれた。スプリントは、素晴らしいヴァリューを持ち高級感があったがインデックス式ではなかった。シュパーブ・プロはラインから外された。
1986年にSISは、デュラからミドルクラスの600、そしてLへ浸透した。SISが品不足になり、シマノは、バイクメーカーが、決定的に重要なギアトレインのコンプリートセットを買うと主張できた。また、バイクフレームの基本設計がシマノの設定に合致すると言うこともできた。店から、インデクスシフトバイクが飛ぶように売れた。マキシムは「クリックしなければ売れない」であった。
シマノは、サンツアーのOEM(相手先商標製品製造会社)市場における顧客を制圧した。シマノのコストは、ずっと低かった。低価格部品はシンガポール工場で製造されたからである。サンツアーの国内工場は依然、円ショックに苦しみ、台湾やシンガポールの価格と張り合うことは不可能であった。アメリカでのシェアは4割に落ち、86年にシマノが追い抜いた。サンツアーは、巨額の損失を出し、サンツアーUSAは、損失補填のため、在庫品を担保に借金をした。