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zoom RSS 石灰と焼畑とレモン ―南高麗のエコ・ツーリズム

<<   作成日時 : 2009/12/11 20:52   >>

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 かつては南高麗村と呼ばれていた下名栗、小沢峠に近い成木街道のすぐ北の上直竹上分(かみなおたけかみぶん)という山辺は、北条家臣が同族の木崎氏を頼って落ち延び、開墾した飯能の土地である(地域情報発信サイト「うらーほうは 上分だ!」http://kamibun.qp.land.to/参照)。この純朴なサイトによれば、帰農した旧家臣は傾斜地を開墾し、焼き畑を行い、水は山清水にたより、苦労の結果、村落のまとまりを作り上げた。
 上成木の佐藤氏、木崎氏、そして小曾木の川口氏は、この地域の有力な石灰竃主であった。木崎家は、氏照のいた天正年間より八王子石灰(はちおうじいしばい)を供給し、それが八王子城築城の際にも資材として使用されたらしい。
 家康江戸入り後の慶長十一(1606)年、江戸城の大改修に伴って、この地域を含む五日市谷、青梅谷での石灰焼きがいよいよ興隆し、街道は「御白土街道」とも呼ばれるようになった。
 永禄七年、氏照は、朱印状で、倒した三田氏の旧家臣を武蔵野の防衛拠点である清戸番所(清瀬)に配置する命令を下しているが、その中に「木崎又兵衛」の名が見える(下山治久『八王子城主・北條氏照』、55−56頁参照)。
 江戸中期、その後の八王子石灰は廉価な蛎殻灰や、野州(やしゅう)佐野の石灰に圧倒され衰退して行く。同時に、青梅街道は、石灰を運ぶ機能に加えて甲州道中の補助ルートとして物流道、そして御岳、秩父への巡礼路などの重層的な性質も帯びるようになった。
 名栗の直竹地区は、都県境にそって延びる低山に囲まれ、成木川の支流、直竹川の流れる山間の土地である。小沢峠とともに西辺を扼す大仁田山(506m)。
そして東の方向に上・下直竹、上・下畑という地名が広がり落ちる。都県境には、奥多摩工業採石場、そして北小曾木の雷電山の上にも奥多摩工業の採石場がある。
 上直竹上分の中心は細田、間野、黒指(くろざす)という地区で、最後の地名の「指(さす)」は、焼き畑を示す武蔵・相模の古い言葉だ(『広辞苑』参照)。どうして、焼き畑を「さす」というのか不思議な訳だが、関東南部に「指」の付く地名は結構ある。少し思いつくままに挙げても、西武池袋線の「小手指こてさし」、裏高尾の豆腐で有名な「摺指するさし」、伊豆ヶ岳の「天目指峠あまめざしとうげ」などが浮かぶ。
 用言の「さす」は「指を伸ばし、その方向を示す、その方向を目指す」という基本の核を持ち、「事物をそれと定めて示す」ことに通じて、「標(しるべ)」的でもある。開墾した斜面のある山を「指す」ことにより畑を示すので「さす」といったのだろうか。また「物を前方に伸ばす」意味もあり、植物の枝、葉、根が延びることも「さす」という。手がかりとなるのは「山地」、「斜面」、「指差し」、「標」といった繋がりだろう。『時代別 国語大辞典上代編』では、相模に掛かる掛け詞の「さねさし」は「サ・ネ・サシ」と分割可能で、「サ」は接頭辞、「ネ」は「嶺」、そして「サシ」はアイヌ語の「チャシ(城砦)」に由来するか、あるいは「立(タ)ち」が転じたものとする説が紹介されている。さらに別の考えとして、「サシ」は焼き畑の「サシ」だとする説がある。「名義抄(『類聚名義抄』)を見ると「聳」の字にサシの訓がある。これによればサシは高くそびえる意だったのかもしれない。後考を待つ。」高山でなくとも近隣のちょっとした小峰を「サシ」といったのだとすると、「名義抄」が言っていることなので、それは、都のコトバ、つまり京都方言のことだ。手前味噌だが、この最後の名義抄の事実を考え合わせれは、やはり、山間の高い所にある自分の開墾した畑を「指差し」て、「サシ」が定着したのではあるまいか。つまり、指呼的な名称だ。突起状のせり出しも、もともと「サシ」というならばちょうど語呂が出て使いやすい。上直竹の「黒指」は、だから、山の上の土が黒かったか、暗い森に包まれていたのだろう。
 「サス」の語義由来は、この程度にして、上直竹地域の結(ゆい)の話だが、「お散歩マーケット」というイベントが開かれている。住んでいる人々が積極的に整備し歩きやすくなったトレイルを散歩しながら、地場の特産品を販売するミニ「エコ・ツーリズム」である。新語である「エコ・ツーリズム」は生硬で意味不明の装いだけれど「お散歩マーケット」の方は、よく分かる。
 特産品はハッサク、レモン等の柑橘類が目玉だ。HPにもあるが、日向の南斜面は暖かい反面、沢沿いの森林地帯は寒く、雪が積もる。これは成木街道をMTBで通ってもよく分かった。そして、鹿、猪、カモシカが棲んでいる。その獣害もある。
 上直竹でも石灰は産し、それを焼いた窯跡が残っているという。だが、残念なことにここの石灰は、青みがあって、御用白土には向かなかったらしい。すると、もっぱら、土壌改良の肥料として使われたのだろう。この季節、青い葉と柑橘類黄色は日の光によく映える。近い内に訪ねることになると思う。

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