梶大介「それから」朝日新聞切り抜き 3

「それより、この10年以上、もっともよく歴史に学んだのは、ほかでもない、安倍たちだったからだ。」辺見庸 (2017/6/15)

 繙くべき歴史はまだ無限にあり、歴史は今を腑分けする。

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 着流し、首にてぬぐいで、卵を磨き坐す梶のモノクローム写真 ―生産が順調で、卵の箱詰めに追われる梶 =84年、静岡県松崎町で

「自立

 一九八二年七月、梶大介は伊豆半島南部の静岡県松崎町へ移り住んだ。ここに山谷が自立するための拠点を作ろうと思った。

 無農薬野菜を作り、首都圏で直販する。養鶏で自然卵も売る。天日干しの魚も同じルートに乗せる。こうして山谷での炊き出し費用を稼ぎだそうとした。

 構想は七三年の石油ショックのころから温めていた。山谷の仲間に職がなくなり、行き倒れが増えた。年中、炊き出しに追われ、カンパを同じ人に何度も頼むことがあった。

 自立を志しながら、他人を頼ってばかりはいられない。その思いがきっかけだった。

 伊豆半島は気候が気に入っていた。山谷の仲間の多くは、体をこわしている。それには暖かい所で暮らすのがいい。農作業で気力と体力を回復し、また山谷に帰っていく。そんなふうにも考えた。

 仲間や支援者にカンパを募った。一カ月で土地代の七百五十万円が集まった。新聞広告で探した標高約三百五十メートルの山の中。放置されてジャングルのようになった四千五百平方メートルのミカン畑に夢をかけた。

 駆けつけた仲間と開拓が始まった。テントを張り、三千本の木の半分を切って根を起こした。鶏舎を建て、寝起き用の二棟の小屋もつくった。

 開拓農園道場とでもいったらいいのか、生活共同体である。自分たちはそこら辺にある石ころと同じ、という意味で「いし・かわら・つぶて舎」と名付けた。親鸞も好んだ言葉である。

 十一月、二百羽のニワトリのヒナを仕入れた。毎日毎日、仲間たちは鶏舎をのぞきにいった。半年後だった。「産んだぞ!」山谷の男たちがったった一個の卵を見て、手を取り合って喜んだ。

 漁港で魚のアラをもらい、煮て、乾燥させて、砕いて、発酵おがくずや菜っ葉とまぜてえさを作った。畑を耕し、ミカンももいだ。充実していた。

 飲み屋もテレビもない生活に、逃げ出す仲間もいた。その度に体の弱った新しい仲間を連れてきた。十年間で千人を超す仲間が元気を取り戻し、山谷へ帰っていった。

 「賽(さい)の河原の石積みみたいなもんや」と梶はいう。

 毎日、四、五百個の卵を出荷できるようになり、計画は順調に進んだ。昨年四月、梶が呼吸不全で意識を失ったのは、そんなころだった。

 見え始めていた山谷解放の目標が、からがらと崩れた。=敬称略」


 ひとりただほとけの御名やたどるらんおのおのかへる法(のり)の場人(ばのひと)      一遍

 次回のものに「実践を伴わない論理を梶は認めない。「わかった、ということは歩き出すことなんや」」という箇所があります。

 おのおの帰る法の場の人とは法の場の人でしょう。帰るまえにザギンでシースでしょうか。それも、酒はラ・ターシュですかと想像します。

 そのナモ、「仕事」という名のワインです。このワイン領域の仕事は濃密でミル・フィーユの丁寧さの積み上げですから、オラには関係ないですが、途轍もなく高い値です。


 ドヤということで、想起しました。辺見庸さんは、かつて、千住のどこかで暮らし、底の風景と付き合ったなかでの断想を印していますが、身体感が濃密で、辺見さんが女(onago)と喰ったサクランボの話が強く印象に残ります。身体、血肉骨の底をから突き抜けて届く感覚でしょう。

 『眼の探索』は特に好きな本です。椿を喰らう男、ありがとね … 「あんた、花なんか喰うなよ」に辺見さんのクソまじめで頑固なところがいいです。