「なぜ毎日エベレストに登るのか?」辺見庸 幻視と脳乱の日録

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713日 迎え火

 辺見庸は、2013831日の講演以前からずっと「エベレスト」登っていた。その講演タイトルは「死刑と新しいファシズム」だった。2011.311から2年あまり、いやいまでもそうですが、世の中はザリザリした感触が顕著だったと思います。

 私は、多忙でその講演には行けずに、本を贖った。あれから、もう6年も過ぎたのか...

 辺見のブログは、窒息しかけた、折り合いのつかない鬱屈する潜水の毎日に空気を送ってくれていた気がします。

「死刑と新しいファシズム」2013831日四谷区民ホールにて講演

「皆さんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか?総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音を立てて崩れていると感じることがないでしょうか。僕は鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかった、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上がってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が流砂のように移りかわり転換して行く。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされていない。つまり、「よく注意しなさい!これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこにもいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間ではありませんか。東京電力福島原発の汚染水拡大はいま現在も世界史的瞬間を刻んでいます。しかし、われわれは未曾有の歴史的な瞬間に見合う日常を送ってはいません。未曾有の歴史的な瞬間に見合う内省をしてません。三・一一は私がそのときに予感した通り、深刻に、痛烈に反省されはしなかった。人の世のありようを根本から考え直してみるきっかけにはなりえていない。生きるに値する、存在するに値する社会とはなにかについて、立ち止まって考えをめぐらす契機にはかならずしもなりえていない。私たちはもう痛さを忘れている。歴史の流砂の上で、それと知らず、人々は浮かれ始めている。」『いま語りえぬことのために』毎日新聞社、2013年、79-80.

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