テーマ:古代史

甘鯛

 暮れ、正月と、普段と変わらない暦の終わりと始まりでありまして、全く連続しており、新年の殊更な抱負などというものも柄でもなく、冥土の一里塚の祥月命日でございます。  師走三週が過ぎる迄、やや忙殺気味のなか、遠山美都男さん『天平の三皇女』河出文庫2016年11月20日初版を購い、寸暇を盗みつつ読みました。 ☆  聖武…
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遷都

 平成二十二(2010)年の平城遷都1300年記念事業では、せんとくん、なーむくん、まんとくん等のマスコットキャラクターが鎬を削った。それに先立ち1995年に「ロマントピア藤原京」があったとは知らなかった。その時は、大震災、地下鉄サリン事件でそれどころではなかった。他愛のない偶像のダメ出しも、2011年の巨大地震と大事故で吹っ飛んで跡形…
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天平

 長屋王が排除された729年から天平が二十年続いた後、感宝、勝宝、宝字、神護と立て続けに変わる。いずれも天平を冠する二文字は、気休めのまじないや、祈祷のようだが、社会の上層部が仏教に傾倒しつつ、貴族社会内部の暗闘を隠し、天下安寧を取り繕う意図を暗示しているかのように見える。この時代、仏教政治と括られることもある。今の平成の時代は、「政官…
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渤海 その3

 渤海使は、北西の季節風に乗り、秋冬に訪れる。春夏、帆船は、あゆの風の助けを受け、沿岸航路を辿る。日本海を北で扼するサハリン辺りまで北上し、進路を西に取り大陸へ接岸する。8世紀中頃、上京龍泉府に都が置かれた。現在の黒龍江省寧安。唐が渤海を冊封した根拠となる鴻臚井碑(七一三年)は旅順にあった。渤海領土は、旧満州国と重なる。渤海の都の周囲に…
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渤海 その2

 遣渤海使は能登の福浦港(福良津)から海を渡ったこともあったのか。都からの経路は、敦賀経由で能登に繋いだのか、それとも遣使の数を重ねるごとに、そこが重要な場所になっていったのか不明。 宝亀三年(七七二)九月戊戌【廿一】戊戌。尾張国飢。賑給之。送渤海客使武生鳥守等解纜入海。忽遭暴風。漂著能登国。客主僅得免死。便於福良津安置。 …
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渤海

 710年、元明天皇、阿閇皇女(あへのひめみこ)平城京遷都  713年、震国、渤海と改名  東アジアの模様。唐により高句麗滅び、半島は百済、新羅が拮抗。大陸北辺はウィグル、突厥。西域は吐蕃。  西ヨーロッパでは、カール大帝の祖父、マルテルが、イスラム勢力を排していた頃。  まるで、受験生のような知識を整理してみる…
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天武十三年十月 「擧國男女叫唱、不知東西」

 7世紀後半、天武代。「真人」を筆頭とする位階「八草の姓」を整えての旧暦十月十四日午後十時頃。 「壬辰(みずづのえたつのひ)に、ゐのときに至りて、大きに地震(なゐふ)る。国こぞりて男女(をのこめのこ)叫び唱(よば)ひて、不知東西(まど)ひぬ。すなはち山崩れ河涌(かはわ)く。諸国の郡(こほり)の官舎(つかさかず)、及び百姓(おほみた…
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世の中を常なきものと今そ知る

世の中を常なきものと今そ知る奈良の都のうつろふ見れば 万巻六1045  今からざっくりと1200年前とも言ってよい時代のこの歌は、少々の語法や表記の違いを除けば、今のことばとあまり変わらず、歌が伝えることも直接感じられる。「世間無常」といえばそれきりだが、この歌は妙に有情だ、何故だろう。  歌は、絢爛たる天平文化のもう一つの面に…
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社宮司 ―ミシャグチ(御赤蛇)

 古代の津久井は、どうやら信濃の「諏訪族」がいち早く青根や青野原を切り開いていたらしいという(参照、e-Tanzawa丹沢大山自然環境情報ステーション、丹沢大山資料室、学術調査報告書1964、第5部文化景観)。それが、近畿の王権が成立する以前なのか後なのかは不明だ。  「諏訪族」、「安曇族」、「隼人族」というのは、風俗、宗教、…
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あぢまさ

 びろう(檳榔)は、写真のシュロ(棕櫚)とは別の亜熱帯性植物だが、似ている。びろう(ビンロウ)の漢字は本来「蒲葵」であった(松田修『古典植物辞典』講談社学術文庫)。「檳榔」、「棕櫚」、「蒲葵」と並べるとどうにも区別がつきにくい。  庭木として植えられるシュロも、ビンロウもその青い葉が冬でもそのまま青々しいので活力の象徴として珍重される…
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多摩川河口付近

 バイク遠乗りで多摩川を下り、羽田まで行って帰って来た。91K程。自転車でトレーニング効果が出る70Kを越えた。  大田区の六郷を過ぎるころ川幅の空間は広がり、穴守稲荷付近では、潮の香がわずかにして来る。河口に近づき、視界が開け、小さな船泊まりの奥の空に旅客機が迎角で進みつつある。  石碑によると羽田の漁村は、数人の落人に始まったと…
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玄界灘に面する道(66) ―鏡山・松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説

 松浦佐用姫の伝説は、宣化紀、大伴金村(おおとものかなむら)による百済救済のための新羅侵攻に関わっている。「百済救済のための新羅侵攻」と言ったが、事態は複雑で、日本は、親百済の姿勢はとっていたが、一方、百済も抜け目なく方策的に日本に支援を求めていたというところだ。    「二年の冬十月(かむなづき)の壬辰(みづのえたつ)の朔(ついた…
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壬申の乱(3)

六月二十六日 「丙戌(ひのえいぬのひ)に、旦(あした)に、朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)の辺(へ)にして、天照大神(あまてらすおほみかみ)を望拝(たよせにをが)みたまふ。」  アマテラス信仰は、その芯に海(洋)神信仰がある。鎮座の場所の移動、つまりアマテラスの大和(崇神)から伊勢(垂仁)への移管は、垂仁期に倭姫命(…
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不破道を塞げ ー壬申の乱(2)

六月二十二日「不破道を塞げ」 「急(すみやか)に美濃国(みののくに)に往(まか)りて、安八磨郡(あはちまのこほり)の湯沐令(ゆのうながし)多臣品治に告げて、機要(はかりことのぬみ)を宣(のたま)ひ示して、先づそ当郡(そのこほり)の兵(いくさ)を発(おこ)せ。仍(なほ)、国司等(くにのみこともちたち)に経(ふ)れて、諸軍(もろもろの…
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七月二日 「赤色着衣上」ー壬申の乱

 『日本書紀』巻二八天武天皇元(六七二)年七月条 秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣紀臣阿閇麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟・率數萬衆、自伊勢大山、越之向倭。且遣村國連男依・書首根麻呂・和珥部臣君手・膽香瓦臣安倍、率數萬衆、自不破出、直入近江。恐其衆與近江師難別、以赤色着衣上。  秋七月(あきふみづき)の庚寅(かのえとら)の朔辛卯(つ…
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玄界灘に面する道(63)――伊都国「爾支(にき)」 

 前原(まえばる)三雲遺跡出土「竟」刻書甕棺というものがある。これは、3世紀中頃の線刻で一列に並んで線刻され、漢字理解の乏しい模写とされる(沖森卓也氏『日本語の誕生 ――古代の文字と表記』吉川弘文館、11頁)。  潤(うるう)地頭丘遺跡からは、凖構造船の船底材部分、管玉、勾玉、それらを加工する石器等が発掘された。  今宿五郎江遺跡は…
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虫とカルトと

 『日本書紀』皇極紀に、虫を崇める不思議な、はやり宗教のことが載っている。 7世紀の半ば、乙巳の変の前年のこと。 「秋七月(あきふみづき)に東国(あづまのくに)の不尽河(ふじのかは)の辺(ほとり)の人大生部多(おほふべのおほ)、虫祭ること村里(むらさと)の人に勧めて曰はく、「此は常世の神なり。此の神を祭る者(ひと)は、富(とみ)…
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安閑紀の位置

 『日本書紀』は、その作成過程で、神代の巻から書き起こされ、最終巻「持統紀」で閉じるのではない。森博達著『日本書紀の謎を解く ――述作者は誰か』(中公新書、1999年)に従い、『日本書紀』成立過程をやや詳しく見る。  氏の主張は、次のように要約される(225-28頁参照)。中国人著述者二人が分担して書いた部分と日本人が後から書き足した…
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「武蔵国造の乱」―― 悚憙交懐(しょうきこうかい)

 安閑紀「武蔵国造の乱」の漢文表現「悚憙交懐」について見る。この表現は、「悚憙(かしこまりよろこび)懐(こころ)に交(み)ちて」という訓(よみ)が与えられている。意味は基本的に、相容れない感情が交錯することであり、漢籍における凖定型表現と見なしてよいと思う。書紀の「交懷」(こころにみちて)という表現は、他に、「国造乱」の直近の「大河内直…
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武蔵国の屯倉(みやけ)と安閑(あんかん)天皇(その7)

 安閑期は、名称と異なり、決して「安閑」ではなく、継体(けいたい)天皇即位後の調整と死後の混乱を内包する時代である。 534年の「武蔵国造の乱」を遡る30年ほどの間に、遷都、半島への介入(主に、任那と百済の関係に関与)が続く。継体五年、510年に河内樟葉宮(かわちのくすはのみや)から山背筒城(つつき)へ遷都、同十二年、518年、山背弟国…
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武蔵国の屯倉(みやけ)と安閑(あんかん)天皇(その6)

 事の発端は同族同士の争いということである。使主は、さきたま古墳群の支配者笠原氏であると推測されることもある。そうだとすると、小杵も笠原氏ゆかりの血縁ということだ。使主の地盤は埼玉県の鴻巣(こうのす)あたりと比定される。一方、「悪者」小杵の根拠地がにどこであるか正確には不明だが、献上された屯倉の場所から推すると当然、武蔵の南になるだろう…
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武蔵国の屯倉(みやけ)と安閑(あんかん)天皇(その5)

 使主が逃げて、大和に行ったそのルートとはどのような道筋だったのか。未だ整備されていない東山(とうさん)道の原形のような縷々(るる)たる道筋か。それとも船を用い、陸路より遥かに高速な海路を採ったのか? 問題の箇所では、畿内政権の裁定はかなり迅速に下る感じであり、逃走は海路を利した線が濃いが、どこから船出したのか。もし海路であるとしたら、…
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武蔵国の屯倉(みやけ)と安閑(あんかん)天皇(その4)

 さきたま古墳群に代表される遺跡が示すように、武蔵国北部では地域豪族が支配的であった。さらに北の上毛野国(かみつけのくに)には、雄族、毛野(けぬ)氏の勢力が榛名や赤城の麓に広がる土地に根を張っていた。これに対して、近畿政権の屯倉(みやけ)は、多摩を含む南武蔵に置かれ、大和勢力の関東進出における南北不均衡を示す。  この乱の後、結果的に…
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川沿いの丘の八角墳

 地域有力者の古墳を凌ぐ八角古墳。7世紀前半造築。高麗尺による比率が算定されたプロポーション。多摩市百草。標高約78mの二つの川に挟まれた丘上。北の大栗(おおぐり)川まで約600m、南の乞田(こった)川まで約900m。第二墳丘に凝灰砂岩を切り出した石を組む複式横穴式石室。近くに落川、貝取の地名。周辺に浅川が多摩川に流れ落ちる古代から平安…
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武蔵国の屯倉(みやけ)と安閑(あんかん)天皇(その3)

 安閑(あんかん)天皇、元(534)年の「武蔵国司の乱」の記述には、妙に作為性を感じることを禁じ得ない。  まず、第一に、前後のストーリーに「うまくはまり過ぎている」と感じる。大和政権の裁きで、小杵が誅され、使主は畏まり、屯倉献上に至るところは、継体紀の「磐井の乱」直後、磐井の娘、葛子(くずこ)が糟屋(かすや)の屯倉を献上し、処刑を免…
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野毛大塚古墳

 多摩川沿いを南下し、二子玉川までLSDした。本当は、その先にある野毛大塚古墳を見るつもりだったが、ニコタマ近くの砂利道で足にキテしまい、兵庫島を見ただけですぐに電車でリターン。  世田谷区野毛にあるこの古墳は、5世紀前半のもので、形状は、帆立貝式前方後円というものだ(「後円の半径にも足らない長さの前方部をつけた前方後円墳」で、巨大古…
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武蔵国の屯倉(みやけ)と安閑(あんかん)天皇(その2)

武蔵國造笠原直使主與同族小杵相爭國造、經年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求援於上毛野君小熊。而謀殺使主。使主覺之走出。詣京言状。朝廷臨斷、以使主爲國造。而誅小杵。國造使主、悚憙交懐、不能黙已。謹爲國家、奉置横渟・橘花・多氷・倉樔、四處屯倉。 安閑天皇元年閏十二月条 (岩波文庫『日本書紀』) 武蔵国造笠原直使主(かさはら…
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武蔵国の屯倉(みやけ)と安閑(あんかん)天皇(その1)

 日本書紀に出る「武蔵国造の乱」は簡潔に書かれており、一見、明快な出来事風だが、数回読むと、想像や憶測を誘い不思議に分かりにくくなって来る。編纂者は、「明快な出来事」として通すことを強く意図していると感じる。くだけた表現を使えば、事象が「サクサク」と述べられ過ぎている。この出来事の記述に複数の角度から「逆光」を当て、「サクサク」感を支え…
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蛭ヶ岳への落日

 多摩境の境川の近くの小さな斜面に田端遺跡(田端環状積石遺構)がある。およそ、3000年から2800年程前の縄文後期から晩期にかけての住居、墓、祭祀の跡である。住居は150戸程の大集落で、隣接する小山白山公園の方にも広がっていた。環状列石は、縄文後期に特に東北・北海道で多く造られている。縄文は列島の北部が優勢だ。出土品には注ぎ口付き土器…
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