テーマ:玄界灘

玄界灘に面する道(66) ―鏡山・松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説

 松浦佐用姫の伝説は、宣化紀、大伴金村(おおとものかなむら)による百済救済のための新羅侵攻に関わっている。「百済救済のための新羅侵攻」と言ったが、事態は複雑で、日本は、親百済の姿勢はとっていたが、一方、百済も抜け目なく方策的に日本に支援を求めていたというところだ。    「二年の冬十月(かむなづき)の壬辰(みづのえたつ)の朔(ついた…
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玄界灘に面する道(65) ―姫島・二丈姉子の鳴き砂

 姫島は、串崎のほぼ北、引津湾の西の海上にある。勤王派の志士をかくまった野村望東尼(もとに)が、流された島だ。歌人であった望東尼は福岡藩士の夫の死後、剃髪し、高杉晋作などに便をはかった。その住まいは、平尾山荘として福岡市中央区に残る。  玄界灘に紫色に浮かぶ夕暮れの姫島を覚えている。二丈には姉子浜があり鳴き砂で有名だ。大粒の石英を多く…
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玄界灘に面する道(64) ―― 浜の名と海村

 「由比が浜」という名の浜がある。「ユイ・イイ」とも言われ、「飯浜」のように作られもする。「ゆいが浜形態」とは倉田一郎が説いた共同体的漁労構造である。一方、陸でも、「ゆひ」は、田植えなどで互いに雇われて力を貸すことを指した。民族学者、柳田国男の『蝸牛考』に東北地方の古い言葉、「ユヒマハル」(協力する)が出ている。これは伊波普猷(いはふゆ…
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玄界灘に面する道(63)――伊都国「爾支(にき)」 

 前原(まえばる)三雲遺跡出土「竟」刻書甕棺というものがある。これは、3世紀中頃の線刻で一列に並んで線刻され、漢字理解の乏しい模写とされる(沖森卓也氏『日本語の誕生 ――古代の文字と表記』吉川弘文館、11頁)。  潤(うるう)地頭丘遺跡からは、凖構造船の船底材部分、管玉、勾玉、それらを加工する石器等が発掘された。  今宿五郎江遺跡は…
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玄界灘に面する道(62)― 廃墟の海辺ホテル

 一部廃墟ファンには、有名な「串崎ケープホテル」が、玄界灘に面する二丈町鹿家(しかが)にあった。  4月のとある日に、福岡市内から唐津まで行ったときに偶然出会った。昨年、とうとう取り壊されたらしい。「玄界灘に面する道」を始めようとしたときから、これについては書きたいと思っていた。  その日は快晴で、草むらからいきなり立ち出た廃墟には…
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玄界灘に面する道(61)  ―― 可也山(かやさん)

 筑前前原から美咲が丘という新興住宅地の駅を越えると加布里(かふり)駅である。北に「筑紫富士」とも「糸島富士」とも親しまれる可也山がある。400メートルに満たない標高であるが、その姿は美しい。船越湾と引津湾という入り江を抱える。進路は筑肥線とそれる海側の唐津街道国道202号を行く。  この加布里という地名のほかに前原の小字に加布羅(か…
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玄界灘に面する道(60)  ―― 波多江(はたえ)

 周船寺の次、前原の手前が波多江である。去年、姪の浜から加布里までの昭和バスの路線が廃止された。銀色の車体に深紅の帯を巻いた昭和バスは、初代ウルトラマンのようだった。その後、デザインは変わったようだ。   前回の「周船寺」で気になっていた「入り江」勝ちの地勢である。貝原益軒の『續風土記』で「周船寺」は怡土郡に編じられ、「波多江」は志摩…
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玄界灘に面する道(59)  ―― 周船寺(すせんじ)

 筑前前原(ちくぜんまえばる)の博多よりの手前に周船寺という町があり、筑肥線の同名の駅もある。かつては「主船司」と造り、太宰府のあった頃、交易の為の船を繋留し管理ていた場所と言われている。あたりは、奈良時代の怡土(いと)郡であり、魏志倭人伝の伊都国に比定される場所である。山側の平野には古代史にとってかなり重要な古墳・遺跡が多い。珍しい地…
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玄界灘に面する道(58) ― 「逆語序」(3)

 神武天皇の名称、「神日本磐余彦火々出見天皇」(カムヤマトイハレビコホホデミノスメラミコト)は、「神日本磐余 (カムヤマトイハレ)」と「彦火々出見 (ヒコホホデミ)」に分てる。「彦」には、上代語の再建音として「ピコ」が想定されるが、以下、便宜上、現代風の「ヒコ」とする。前半部が天皇の個称、後半部が聖名である。これは諱(ただのみな)であり…
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玄界灘に面する道(57) ― 継体天皇と磐井の乱

 磐井(いわい)の君の墳墓とされる岩戸山(いわとやま)古墳は筑後にある。筑前と筑後は同じ福岡県にあるが、人国記的にいえば大分、気質が異なる。ミクロ的な文化や歴史が違うためだろう。「肥前・筑後・肥後の三地区は地勢・風土・言語(方言)の面より見て、一連の同質的社会構造をなしている。 … 議論を好み、自尊心が強く、独りよがりな面があり、強気、…
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玄界灘に面する道(56) ― ヤミ語

 ヤミ語 (Yami, 雅美)は台湾東南海上にある蘭嶼(らんしょ)に住むヤミ族の言語で、オーストロネシア語族に入る。「オーストロネシア」とは、ギリシャ語、ラテン語を合わせ、「南の島」という意味だ。以下、三省堂の『言語学大辞典』(土田滋)の項目からヤミ語の特徴を拾ってみる。同語族では、語根を動詞化、名詞化する接頭辞組織が発達しており、例え…
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玄界灘に面する道(55) ― 半島との交流、三つのフェーズ

 武田幸男編 『古代を考える 日本と朝鮮』(吉川弘文館、2005年)によると、倭国と半島との交流史には、三つの時期を設定できる。  第一期の3世紀以前は、「原三国」と倭の時代と特徴づけられる。このフェーズの半島の国々は、三国時代の前身に当たるため、朝鮮考古学で「原三国」と言う。倭国は、文献上、『魏志』「東夷伝」の世界に相当し、卑弥…
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「玄界灘に面する道 (53) ― 企救郡板櫃川」について

「玄界灘に面する道 (53) ― 企救郡板櫃川」について 「而今知勅使。即下馬。兩段再拜申云。廣嗣不敢捍朝命。但請朝廷乱人二人耳。廣嗣敢捍朝廷者。天神地祇罸殺。常人等云。爲賜勅符喚大宰典已上。何故發兵押來。廣嗣不能辨荅。乘馬却還。」 (吉川弘文館 新訂増補国史大系 『続日本紀』) 「今はじめて勅使であることを知った」と言って、すぐ…
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玄界灘に面する道(54) ―筑前前原(ちくぜんまえばる)方面へ

6-7世紀の半島情勢と近畿政権  今宿の駅に行く手前にどこかで書いた「牧のうどん」の今宿店がある。その前に今宿青木元冦防塁(いまじゅくあおきげんこうぼうるい)がある。比較的保存状態がいい。今宿青木とは鯰(なまず)川が西に流れる長垂山の奥の高い部分を言う。鯰川橋のあたり、タクシー会社と料理屋があったと思う。河口には明るいイエローオーカー…
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「玄界灘に面する道(48) ― 元岡遺跡群」について

「玄界灘に面する道(48) ― 元岡遺跡群」について 『日本後紀』巻十二 桓武天皇 延暦二十三(804)年 十一月十一日 「筑前志麻(しま)郡は、今後、絹の調を停止し、替りに鉄で納めさせることにした。」(森田悌訳『日本後紀(上)』、講談社学術文庫、2006年、338頁)
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玄界灘に面する道 (53) ― 企救郡板櫃川

企救郡板櫃川(きくぐんいたびつがわ)―藤原広嗣―松本清張 『昭和史発掘』  8世紀半ばの天平(てんぴょう)年間のこと、『続日本紀しょくにほんぎ』に、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が逆賊として描かれている。所謂、「広嗣の乱」である。広嗣は、遠く祖(おや)を鎌足(かまたり)にもつ藤原氏式家の出である。  都では自他ともに政の中心役になる…
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玄界灘に面する道(52) ― 「逆語序」(2)

 さらに折口は、敬称を含む固有名表現に踏み込んでいく。この部分は重量感があると同時に、琉球語との比較対照が続き、難解だ。  神武天皇即位前紀に出る神武天皇の皇后となる事代主神(コトシロヌシノカミ)の娘「媛踏韛五十媛命」(ヒメタタライスズヒメ、『古事記』では比売多多良伊須気余理比売ヒメタタライスケヨリヒメ) から 「ホトタ…
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玄界灘に面する道(51) ― 「逆語序」(1)

 「日琉語族論」『折口信夫全集 12』所収(中央公論社、1996年、初出『民族学研究』第十五巻第二号、1950年)を読んでみた。折口最晩年の著作である (1953年没)。特有の語り口が、微細な部分に迫り、繊細だが、年来暖めてきた考究を開陳するトーンは重厚であるので、論旨自体は野太く風格を感じさせる。  上代語の「下沓、襪」(したぐつ、…
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玄界灘に面する道(50) ― 二見ヶ浦

宮浦から夫婦岩のある二見ヶ浦へ向かうには岬の内部に入り込むが、進めば唐泊(からどまり)である。北には玄界島がある。その先に小呂(おろの)島という漁業を営む小さな島がある。昔は大蠎島と書き、大蛇伝説があった。唐泊は韓へ行く小さな港である。次の万葉歌碑は宮浦の東林寺境内に立つ。 韓亭(からどまり) 能許の浦波 立たぬ日は あれども…
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玄界灘に面する道(49) ― 久米集落

 時代が少し飛ぶ。場所も大和へしばらく移る。応神天皇から仁徳天皇までの河内王朝期をすっ飛ばし、継体(けいたい)天皇の頃に行く。雄略天皇の後、武烈天皇が亡くなり、仁徳系が絶えた。「越前王朝」とも言われる継体の時代に、九州でクーデターが起こる。527年の筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の乱である。継体天皇没後、大和では蘇我氏の勢力が圧倒的と…
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玄界灘に面する道(48) ― 元岡遺跡群

古代の官営製鉄所か?  半島の根元には古代遺跡が多い。倭人伝の「伊都國」(怡土)は、根元の東あたりに比定される。海沿いを廻るので精一杯で半島の内部には走り込んだことはない。 2000年、内部の元岡(もとおか)で大規模な遺跡が発見された(元岡遺跡群)。実は九州大学の移転地は糸島半島の中心からやや東にずれたこの地であり、先立つ一連の…
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玄界灘に面する道(47) ― 糸島へ

カラ(駕洛、韓、唐、伽耶、可也)へ  糸島半島は博多湾の西にある小さな半島で、観光面ではあまり知られていない。博多から九州に入り、阿蘇、鹿児島、別府、長崎など忙しく飛び回る旅行もいいが、福岡をじっくり、安上がりに堪能したい場合、おすすめする。福岡空港、あるいは博多から地下鉄・筑肥線で今宿、ないしは前原まで出て、路線バスで海沿いに気侭に…
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「玄界灘に面する道(46) ― 波照間の語源について」について

「玄界灘に面する道(46) ― 波照間の語源について」について 「琉球の王室で祀つた神を、君真者(キムマムン)と言ふ。真者(マムン)とは、尊者の称呼である。此を正しい文法にすると、真者君と言ふことである。」折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集 2』(中央公論社、1995年)
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「玄界灘に面する道(15) ― オオサザキの名」について

「玄界灘に面する道(15) ― オオサザキの名」について 古代人の信仰では、神聖な職は不滅であり、その位置の永久保存の為に人が入れ替わり立ち代わると考えたということが折口信夫「上代葬儀の精神」にある。「譬えば、竹内宿禰の長生きしたことは、古事記・日本紀其他昔の書物を見ましても、実際長生きしているやうに見えます。此を否定しようとして、い…
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玄界灘に面する道(46) ― 波照間の語源について

 波照間(はてるま)島は八重山列島中、北緯24°、東経124°附近にあり、台湾とは、韓国と北九州ほどの距離しか離れていない。この島のことばをめぐり半世紀以上前、金関丈夫(かねせきたけお)と宮良当壮(みやながまさもり)の間で興味深い論争があった。そのことが、谷川健一氏の『日本の地名』で触れられている。  金関氏は、昭和29年、朝日新聞関…
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玄界灘に面する道(45) ― 蛇・雷・剣という繋がりと広がりと

 イザナギ、イザナミの国生み後、イザナミは 火神であるカグツチ(軻遇突智)を生みホトを焼かれ死ぬ。これに怒るイザナギは、剣でカグツチを切り殺し、滴る血から生まれるのは、雷神であり剣の神である径津主(フツヌシ)神だ。この神生み神話は、元はと言えば、淡路島と言う局所的な地域で古代から信仰されてきたものであり(松前健氏『日本の神々』岩波新書、…
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玄界灘に面する道(44) ― その後の阿曇氏(4)

○元正天皇、養老五年(721)正月二十三日、正六位上の船連大魚(フネノムラジオオウオ)、従七位下の塩家連吉麻呂・刀利宣怜らが役所を退出後、皇太子(首オビト皇子、後の聖武天皇。元正天皇は叔母。)に仕わされる(『続日本紀(上)』、講談社学術文庫、2006年)。これには従五位下の山上臣憶良(ヤマノウエノオミオクラ)も含まれた。 ○養老七…
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玄界灘に面する道(43) ― その後の阿曇氏(3)

○安曇郡司 「信濃国安曇郡前科郷戸主安曇部真羊調布壱端(長四丈二尺、広二尺四寸)主当国司史生八位上中臣殖粟連梶取郡司主帳従七位上安曇部百鳥天平宝字八年十月」(「正倉院御物布袴墨書銘」坂本博氏『信濃安曇族の謎を追う ― どこから来て、どこへ消えたか―』、近代文芸社、2004年、191頁)。天平宝字八年(764)、信濃国(しなののくに)、…
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玄界灘に面する道(42) ― その後の阿曇氏(2)

○阿曇宿禰虫麻呂(アヅミノスクネムシマロ) 天平十年(736)の『淡路国正税帳』に淡路国三原郡在住として記されている(松前健氏『日本の神々』、中公新書、1974年、45頁)。松前氏は履仲紀にある阿曇連浜子が野島(兵庫県淡路島北淡町野島、岩波『日本書紀(二)』履中紀285頁注六)の海人を従えていたことから、阿曇族と淡路は古くから関係があ…
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玄界灘に面する道(41) ― その後の阿曇氏(1)

 『続日本紀』文武天皇代慶雲(きょううん)元年(704)、正月七日、従六位下であったムシナは、その他大勢とともに従五位下を授けられた。同じ位階を授けられた有力氏族には、高橋朝臣若麻呂、若犬養(ワカイヌカイ)宿禰檳榔(アジマサ)、巨勢(コセ)朝臣久須比(クスヒ)、大伴宿禰道足(ミチタリ)、阿倍朝臣首名(オビトナ)、大神(オオミワ)朝臣狛麻…
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